暇だらけビンボー
坐っている。あぐらをかいて坐っている。おそらく死ぬまで、あぐらをかいて坐っているだろう。 悟りを開こうと思って坐っているわけではない。あぐらであって座禅ではない。宗教とかイデオロ ギーに対して、年をとるにつれてますます不信心の度を加える。ああいうものは一種の産業みたい なものであって、そこに意義があるので、もうおれみたいに先が短くなってくれば、どうでもいい というのではなく、どうにもならんというような気持ちでいるらしい。 -富士正晴『坐っている』より
ておったという事がうれしくなるのだ。
だから本を読んでるのかも知らん。
戦中にせよ戦後にせよ、時代に抗ったり乗ったりすることだけが、時代へのアンガージュマンでも あるまい。時代は流れていくが、その時代を勝手に流れさせてしまうのもまた、時代へのコミット のあり方だろう。(略) ただ生きている姿を貫くには、時代は勝手に流させておけばよい。それは優雅なことだ。(略) 現代においてそれを体現した人というと、まず富士正晴を思い出す。 これは、帝国陸軍のなかにあってさえ、優雅に生きられるということでもある。そのかわり、すご くひどい目にあいながらではあるが。何と言っても富士の場合は、軍隊的なものに抵抗してそうな っているのではなく、彼の存在自体が軍隊から外れてしまっていることで、うっかり優雅になって しまったのだから。 -森毅『竹林伝説』より
とりあえずは私も、富士正晴の言う<暇だらけ貧乏>別名を<乗り手のないタクシーのごとく>状態に突
入してしまったことやし、テキトーにやっていこうと思うとります。
ほな。