吹けば飛ぶよな

 
昭和12年(1937)の2月5日は、織田作之助が『可能性の文学』で、「一生一代の対局でさした阿呆な将

棋を坂田の傑作として永く記憶したいのである」と書いた、阪田三吉が九四の端歩という横紙破りな最初

の一手を指した日。

・・・阿呆な将棋は「あほうな将棋」と読まず「アホな将棋」と読むのがええ思います。

相手は、木村義雄名人。阪田三吉はやっぱり強い!と世間に言わすかどうかの大一番。

で、アホな九四の端歩の先手で負ける。

阪田三吉、この時68歳。


そんなことで、ちょっと世間の阪田三吉のイメージをネットで調べてみた。

調べたのは歌謡曲というか演歌というかそんなん。

やっぱりやけど、阪田三吉のイメージというと、嫁ハン泣かせて将棋に賭ける、東京がなんぼのもんじゃ

い!という感じ。

彦麻呂なら「コテコテ大阪の三番バッターやぁ」と言いそう。四番は誰や?


♪勝てば王将負ければ歩 浪花東京の勝負どこ 命二つを一つに燃やす おれと小春は夫婦駒♪

 歌うは石原裕次郎で「王将・夫婦駒」は1965年。

♪王将かけてとことんやるで 振った駒にもたましい宿る いばらの血汐はいばらの花や♪

 また石原裕次郎で「勝負道」は1965年。

♪いまに勝負のときがくる 打って出ようか東京までも 勝たにゃ死んでも死にきれぬ♪

 生駒一の「浪花棋士道」は1971年。

♪小春済まぬな夫のために愚痴もこぼさず苦労する 浪花根性を二人して明日の勝負にかけよやないか♪

 真山一郎の「王将」は1972年。


濃いなぁ。

こんなイメージが固まったのは、年代的に考えると1961年のあの大ヒット曲によるもんやと思います。


♪明日は東京へ出てゆくからは なにがなんでも勝たねばならぬ

 空に灯がつく通天閣に おれの闘志がまた燃える♪


村田英雄の「王将」です。

私も1986年に東京に出た時に、アホな上司に神楽坂の安モンの店で無理矢理歌わされて「おい、その心意

気忘れるなぁ」とかなんとか、ワケワカラン説教かまされた覚えがあります。


村田英雄の「王将」的な阪田三吉のイメージが広がり固まったのは、右肩上がりの世の中で、各地から毎

年のように大阪に送られ続けた「金の卵」と呼ばれた中学生の存在があると思います。

私は大阪の工場街で生まれ育ったので、それは実感としてわかります。知り合いにぎょうさんいてます。

ようするに「金の卵」と呼ばれながらも、実際には給料も昇進も学歴によってはっきりとした差があるこ

とが次第にわかってくるなかで、学歴もないけど、東京という大きな存在にぶつかって行く、阪田三吉

ような生き方への憧れのようなもんが、村田英雄的阪田三吉像に込められている気がします。


そんな背景で出来上がった、ナニワのど根性的三吉像は、そのまま花登筺なんかのTVにつながってま

す。そして、そういう像に共感を持つ人達は大阪だけでなく、東京にも名古屋にもいてました。


ところで、一曲だけフランク永井の「大阪暮らし」は三吉の九四の端歩を歌ってました。

 ♪阪田三吉端歩もついた 銀が泣いてる勝負師気質♪

作詞は石浜恒夫やから、当たり前ゆうたら当たり前かもですけど。


この頃はなんもかんも、大阪=コテコテ&粉もん&お笑い…状態やから、コテコテを引き剥がさんと「大

阪」が見えんようになった気がします。

剥がしても、織田作が書くように「幻の大阪」しかないのかも知らんけど。



●「阪田三吉が死んだ」ではじめる、織田作之助の『可能性の文学』
阪田三吉の阿呆な一手を描いた、織田作之助の『聴雨』
●大阪日々新聞「なにわ人物伝」の阪田三吉。著者は三善貞司。
  →http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/index.html



ほな。