吹けば飛ぶよな
棋を坂田の傑作として永く記憶したいのである」と書いた、阪田三吉が九四の端歩という横紙破りな最初
の一手を指した日。
・・・阿呆な将棋は「あほうな将棋」と読まず「アホな将棋」と読むのがええ思います。
で、アホな九四の端歩の先手で負ける。
阪田三吉、この時68歳。
そんなことで、ちょっと世間の阪田三吉のイメージをネットで調べてみた。
調べたのは歌謡曲というか演歌というかそんなん。
やっぱりやけど、阪田三吉のイメージというと、嫁ハン泣かせて将棋に賭ける、東京がなんぼのもんじゃ
い!という感じ。
彦麻呂なら「コテコテ大阪の三番バッターやぁ」と言いそう。四番は誰や?
♪勝てば王将負ければ歩 浪花東京の勝負どこ 命二つを一つに燃やす おれと小春は夫婦駒♪
歌うは石原裕次郎で「王将・夫婦駒」は1965年。
♪王将かけてとことんやるで 振った駒にもたましい宿る いばらの血汐はいばらの花や♪
また石原裕次郎で「勝負道」は1965年。
♪いまに勝負のときがくる 打って出ようか東京までも 勝たにゃ死んでも死にきれぬ♪
生駒一の「浪花棋士道」は1971年。
♪小春済まぬな夫のために愚痴もこぼさず苦労する 浪花根性を二人して明日の勝負にかけよやないか♪
真山一郎の「王将」は1972年。
濃いなぁ。
こんなイメージが固まったのは、年代的に考えると1961年のあの大ヒット曲によるもんやと思います。
♪明日は東京へ出てゆくからは なにがなんでも勝たねばならぬ
空に灯がつく通天閣に おれの闘志がまた燃える♪
村田英雄の「王将」です。
私も1986年に東京に出た時に、アホな上司に神楽坂の安モンの店で無理矢理歌わされて「おい、その心意
気忘れるなぁ」とかなんとか、ワケワカラン説教かまされた覚えがあります。
村田英雄の「王将」的な阪田三吉のイメージが広がり固まったのは、右肩上がりの世の中で、各地から毎
年のように大阪に送られ続けた「金の卵」と呼ばれた中学生の存在があると思います。
私は大阪の工場街で生まれ育ったので、それは実感としてわかります。知り合いにぎょうさんいてます。
ようするに「金の卵」と呼ばれながらも、実際には給料も昇進も学歴によってはっきりとした差があるこ
とが次第にわかってくるなかで、学歴もないけど、東京という大きな存在にぶつかって行く、阪田三吉の
ような生き方への憧れのようなもんが、村田英雄的阪田三吉像に込められている気がします。
そんな背景で出来上がった、ナニワのど根性的三吉像は、そのまま花登筺なんかのTVにつながってま
す。そして、そういう像に共感を持つ人達は大阪だけでなく、東京にも名古屋にもいてました。
ところで、一曲だけフランク永井の「大阪暮らし」は三吉の九四の端歩を歌ってました。
♪阪田三吉端歩もついた 銀が泣いてる勝負師気質♪
作詞は石浜恒夫やから、当たり前ゆうたら当たり前かもですけど。
この頃はなんもかんも、大阪=コテコテ&粉もん&お笑い…状態やから、コテコテを引き剥がさんと「大
阪」が見えんようになった気がします。
剥がしても、織田作が書くように「幻の大阪」しかないのかも知らんけど。
●「阪田三吉が死んだ」ではじめる、織田作之助の『可能性の文学』
●阪田三吉の阿呆な一手を描いた、織田作之助の『聴雨』
●大阪日々新聞「なにわ人物伝」の阪田三吉。著者は三善貞司。
→http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/index.html
●阪田三吉の阿呆な一手を描いた、織田作之助の『聴雨』
●大阪日々新聞「なにわ人物伝」の阪田三吉。著者は三善貞司。
→http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/index.html
ほな。