『オリガ・モリソヴナの反語法』

日雇いをしてた。

夜8時から朝8時まで、日払いで5000円くらいだったと思う。

金に焦ってたわけではなく、自分の欲望をそぎ落とすだけ落としたかった。

もう30年も前の話だ。

朝、ドヤの二階の部屋に戻ってカーテンを閉める。

薄暗くて、なんもない部屋で万能ナイフの刃先を見ていると気持ちが静まってくる。

べつに死にたいわけでも、誰かを刺したいわけでもなかった。



米原万里、『オリガ・モリソヴナの反語法』。


  こうして自分で刃物を手にした瞬間、途轍もない解放感を味わったんだ。自由を獲得したと思った。

  あたしの生死はあたし自身で決めるって。

  もうそのときは、自殺する気なんて完全に雲散霧消していた。

  絶対に自殺するものか、生き抜いてやる、と心に固く決めていた。

  そういう勇気と力をこの手製のカミソリは与えてくれた。


ソビエトラーゲリに収容されたオリガ・モリソヴナは、死ぬ自由まで奪われていた。

自殺する自由さえなかった。

だから刃物を手に入れようと必死になり、皮肉なことにこれが生きがいになる。

そして、靴紐をひっかける掛け金を外し真っ直ぐ伸ばして、毎日床石に当てて少しずつ研いでいった。


これは使い古された「自由」への意志なんかじゃない。

自分が自分を所有した瞬間。


悪人正機という。

悪人扱いされてまで救われたくもない。


罪人という。

ただ生まれただけで罪人扱いされたくもない。


前世という、来世という。

二度と生まれたくもない。


私は私。


それ以上でも、以下でもないです。