と む ら う

 
まだ死んだことがない。

ただ、生きてるより死んでる時の方が長いやろ思う。

おんなじように、生きてる数より死んでる数の方が絶対に多いはずや。



   いまは死者がとむらうときだ

   わるびれず死者におれたちが

   とむらわれるときだ



石原吉郎は『礼節』で、そう書いてた。


こないだ四天王寺周辺を歩いた。

継母の呪いで、癩をやみ盲目となり、家を追われ四天王寺で乞食となった俊徳丸は、四天王寺の西門で

西の海に沈む夕日を拝み、西方浄土を偲んだという話がある。

それは、俊徳丸だけのことではない。

病み傷ついた者達が四天王寺を目指して、歩き、歩けない者は這って行った様子が浮かんでくる。

道中で、彼らが歌い踊るのは、自らを弔ってくれる死者達への返礼のようにも思う。


芸能は、死者とつながって生まれたものだという思いがある。


いま、どこに立てば、死者は私を弔ってくれんやろか?


それが、さっぱりわからん。



小骨一つ残さず、鯖の骨を抜いた。

爺さんは、骨があると魚が食えなくなっている。



   骨のあるところを見せて眠れ この醜仮廬(しきかりいお)は



荒川洋治の一節を思い出し、鯖は塩焼きにした。



そんだけ。