ぶ~らぶら

 
何があっても腹は減る。腹が減るから飯を食う。

ずいぶんと昔には、腹が減って食えない事よりも悲しいことがあるような気がしてた。

この頃は、腹が減って飯が食えない事のほうが悲しい事と思うようになった。

「涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味はわからない」。ゲーテにそんなんがあった。

そんな具合な感じもする。


・・・ちょっと違うか?


ところで私も、人生「酸いも甘いも噛み分け」た年齢に達したわけだけど、いまだに「酸い」の方しか味

わってない。

いつになったら「甘い」を味わう事が出来るのだろうか?


・・・わからん。


「生まれて生きている『自分』というものは、誰か見知らぬ人間によって投げつけられた毬のようなもの

だ。運動の法則によって或る定められた時間の間動き続けているのに過ぎない。つまり惰性によって動い

ているのである」辻潤は書いとった。


まぁ、振り子みたいな感じではあるなぁ。

私自身の殺生を決めるのは、私にわからんとこにあるらしい。

それだけは、アホな私にもわかる。

どこの誰が持ってるのか知らんし、そんなんは、どっちゃでもええ。


いよいよ陽気もようなってきた。外に出ると、けっこう気持ちがいい。

腹が減ったら飯を食うのとおんなじで、こんな陽気になると、オッサンも血迷ってスキップしたくなった

りもする。


とにかく、振り子が止まるまで、ぶ~らぶらして行くのだ。

どこまでも、永遠の「今」を生きるのだ。


昨日は教えてもうた『桜の國の散る中で』を繰り返し聴いてた。

なんや、黒田オサムさんの『地蔵和讃』を聴いた時とおんなじ様な気分になった。

悪い気分ではない。

<前向きな後ろ向き>そういうのもありやなぁ思うた。



そんだけ。



         曝すのは恥しかない

         ありのままあらん限り

         血肉とていつかは
 
         皮膚を出て不明になるのだよ

         ・・・・・

         切なさを生きて、君

         前向きになるのだよ、君

         物語は螺旋に

         この世からあの世へと

         駆け上る
       
                -友川カズキ『ワルツ』
  


          ・・・耳から拾うたので間違ごうてるかも知らん。すんません。