「達者で元気にニコニコと」・・・

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何度か紹介してます、辻潤の書です。

この書、よくみれば「仙吉君へ」とあります。

仙吉君とは、宮城の辻マニア、菅野青顔の子供であり、仙吉という名も辻の命名だそうです。

そんなんで、この書が書かれた頃の辻潤の様子を、菅野青顔の『我が人生の教師よ』から引いてみます。


くどいですけど、わたしはこの書が大好きです。


 二度目に、先生が気仙沼に現われたのは昭和十六年十二月五日の風の吹く寒い日であった…

 よく見れば十徳のしたには古ぼけた袷に垢で黒くなった肌襦袢一枚きり、手首も足も垢で汚れ、お

 まけにひびまで切らしているありさまだった。自分は、どこか長年の間。他国を放浪していいた肉

 親が舞いもどつて釆たような気がして眼頭が熱くなって困った。

 先生の現われたことが、その日のうちに町内の仲間に知れると、酒をさげてくる者、タバコを持っ

 てくる者、酒の肴を運んでくる者等々、次々に自分の家にやって釆て、一別以来の挨拶、まるで賑

 かになった。先生の寒そうな恰好を見るや、すぐ立って行ってメリヤスのシャツとズボンを求めて

 釆て、あてがう者もあった。「僕は洋服の時以外にはこんなものは着ないんだがネ」と言う先生も

 、「ここは東京や小田原と違って寒いから」とすすめられて素直にその厚意を受けるのだった。

 先生が命名して下さった自分の倅も小学二年の腕白小僧になっている。この前お出の時は倅は二ツ

 だった。その倅のために、ありあわせの障子紙に書いて下さったのは、「たっしゃで元気でニコニ

 コと青空めがけて生き給え」(仙吉君へ 辻潤)というのであった。

 先生は二度の来遊で、気仙沼で書きなぐった書画は百点近くもあるが、いずれも「陀ッ仙」とか

 「奇仙洞」とかの署名はかりの中に、どういうワケか、倅へのだけは本名を書いている。倅は、

 いわばこんだは先生と初対面なのである。なんにも言わずピョコンと頭を下げた倅を見た先生は
 
 「仙ちゃん大きくなったネ」とニコニコするその顔、その眼、慈眼視衆生のその慈眼そのものだ

 った。なんだか知らないが、倅は嬉しくてたまらないのだ、外に飛び出して近所の鼻たれどもを

 呼び集めて、「おらいいな、えらい先生が釆たんだぞ!」と、得意の宣伝ぶりが、二階まできこ

 えてくる。 それを耳にした先生は「えらい先生かネ」と笑っている。

 あとで、その倅が言う「えらい先生が」、近所の鼻たれどもから「なァんだ仙坊、おめえにいる

 先生はホイド(乞食)見てえだど」と言われて件はアーンアーン泣きわめいたものだ。
 
 その倅に案内されて、近くにある銭湯に漬って釆た先生は、見違えるように血色のいい顔をして、

 家族一同と貧しい夕餉の箸をとるのであった。行方も知れぬ旅の空、さも安心したかのように。
 
 然し、或る悟りを持って居られる先生には左様なセソチなどは問題である筈はない。夜になつて、

 仲間持参のオミキに陶然とした先生が、自分の乞いに任せて、ひろげた半切に墨痕淋灘たらしめ

 たのは「風狂落莫無人境」の七字であった。
 
 かくして先生は自分の家に約一ケ月、あとの一ケ月は町内河原田の広野画伯宅に逗留して、気仙

 沼を立たれたのは翌十七年二月四日のことであったが、之が最後になろうとはどうしても思えな

 かった。自分の家に居られる問、先生は二階の入畳に陣取って、朝から晩まで本はかり読んで居

 られた。

 仲間が来て飲みに連れ出されるほかは、居たか居ないか分らぬほど静かに本のページを繰ってい

 た。昔、読んだ物だとて丘浅次郎博士の「進化と人生」なども読んで、いま読んでも中々面白い

 本だと、丘博士の名文を賞していた。広野画伯宅にまで持って行って、繰返し繰返し読んだもの

 に「モソテーニュ随想録」三巻(関根訳)がある。そして、その一冊毎の表紙裏に、「自分が無

 学であると云う智識を細々と論じた人間」とか、「自分はなに物にも屈せざる自己流の振舞を忠

 実に生きた」などと得意の筆跡を遺している。
                          -菅野青顔『我が人生の教師よ』より


長い引用ですんまへん。