ダイヤモンド高い~高いは通天閣~

  
   ♪ダイヤモンド高い~高いは通天閣通天閣こわい~こわいは幽霊~幽霊は青い~青いは坊さん

   ~坊さん滑る~滑るは氷~氷は白い~白いは兎~兎は走る~走るは別当別当はえらい

   ~えらいは学者~学者はできる~できるはデンポ~デンボはうつる~うつるは鏡~鏡はわれる

   ~われらは日本男児なり♪ (『大阪モダン--通天閣と新世界』橋爪紳也より)


その通天閣です。


忘れたらアカンのが、村田センセの『王将』。

    ♪明日は東京へぇ 出て行くからはぁ~

     なにがなんでもぉ 勝てねばならぬぅ~

     空にぃ灯がつくぅ 通天閣にぃ~

     おれの闘志が まぁたぁ~あ燃えるぅううう♪

オッサンは闘志燃やすことなく帰ってきたけど。

この『王将』の作詞は西條八十です。


春は曙、夏は小錦小錦は、本名を八十吉いいます・・・これ、関係ない話です。


通天閣です。


通天閣の初代が出来たのが、明治45年(1912)の今日、7月3日でおます。

まぁ一般的には、明治の万博=第5回内国勧業博覧会明治36年に開催されて、その跡地に天王寺公園

出来て、ほんでもまだ土地残ってるので、そこを<新世界>いう名前にしてでっかい娯楽地にして、この

さいバーンと行こ!で作ったのが通天閣とルナパークです。

ルナパーク=NYのコニーアイランド通天閣エッフェル塔が手本というかパクリというか。

そんなん。


ところで、筒井康隆のお父さんは天王寺動物園の園長やったそうです・・・これ関係ない話しです、


去年(2008)、大阪の長居スタジアムで開催された「世界陸上」。

ついでに、長居周辺のホームレスを排除してまえ!とずいぶんキツイことをお上はやりました。

だいたいお上がやる大きな祭りの裏にはいろんなヤヤコシくない、単純明快な思惑があります。

目障りや!掃除してまえ!片づけてまえ!きれいきれいになったら、こないしょ!

越後屋、そちも悪よのぅ・・・うは、うは、うははは!であります。

そんなんです。はい。


そんなことで、きれいさっぱりと消えてしまった町があります。

名護町です。

この町は、そのルナパークの道をはさんだ反対側にありました。

 当時の名護町のむさくるしさを随筆タッチで表現したものに上田秋成の癇癖談(くせものがたり)

 がある。(秋成は長町としている)又天保4年(1833)に窮民20万との記録も見られ、しか

 もその窮民を難渋者・極難渋者と区別している。 その後大坂は大凶荒、大飢饉が相次ぎ天保8年

 (1837)には大塩の乱が起っている。

 明治22年(1889)大阪市制の実施によって通称長町は南区に属し、明治30年(1897)

 第一次市域拡張に伴って、長町に隣接の問題地区である今宮村、天王寺村等が編入された。

 この結果、関西線までの今宮村北半分が大阪市に入り、貧民地区は南区と変わるが、長町は市外に

 むかって膨張を続ける。 この時期が所謂封建的スラムより近代的、スラムえの移行に当るわけで

 人口およそ9千~1万であった。(大阪市の全人口約30万人)

 その詳細は明治21年(1888)鈴木梅四郎『大阪名護町貧民窟視察記』、26年(1893)

 大我居士『貧天地饑寒窟探険記』、32年(1899)横山源之助『日本之下層社会』等にえがか

 れている。

以上は、「騒動十三年目を迎えた愛隣地区(釜ヶ崎)ーその現況と分析―」よりの引用です。


大阪市の人口が30万人で1万人です。

ん?今もそんなもんかも知らんなぁ。


ついでに、『雨月物語』の上田秋成は曾根崎新地の遊郭で生まれたりしてます。オトンには会ったことが

なく、オカンにも一回会っただけやそうです・・・これ関係ない話です。


で、話を戻すと、名護町がお上の手でぶっ壊されて、釜ケ崎の誕生という流れです。

場所の系譜というのがあります。

加藤政洋という人の書いた『大阪のスラムと盛り場―近代都市と場所の系譜学』を機会があれば読んでも

らえれば思います。

面倒な方は、加藤政洋さんが書いた『木賃宿街「釜ケ崎」の成立とその背景』がPDFで読めますので、

そっちでも。



とりあえず、通天閣は今日誕生です。



はい。