喪 中

 
仕事をしてた時は、いわゆる得意先への年賀状は出していたが、私的な賀状は今まで出したことはない。


去年、今年と婆さん&爺さんが死んだので、それぞれの知り合いに喪中葉書は出した。


そんなわけで、今年は家に賀状がくることもないだろうし、それはそれでかまわん。


喪中につき年賀はというのが、その年限りのことであるのはなんでかワカラン。


それが礼儀ゆうもんなんやろか?


近在の人たちは、今年はゆっくりと年越せますなぁなどと言うし、良いお年をなんて言ったりする。


しかし、これまでゆっくりと年を越したことなどないし、良い年なんてあったためしもない。


爺&婆に限らず、私が歳を取ったからでもなく、私の周りで人は死んでいった。


病死、事故死それから自殺。


それぞれに大切な人であった。


その人たちの死が劇的だったからというのではない、私は人が死ぬをみてきたのだということ。


人が死ぬとなんでや知らんけど、かえって、その人たちが私の心に住んでいたりする。


生きてるときよりも近くにいるような具合だ。


例えば、厚労省元次官襲撃は小さい頃飼ってた犬を殺された恨みからという。


それはないやろ?とTVの識者は理解不能な話をしている。


中島みゆき風に言うなら「包帯のような嘘を、見破ることで学者は世間を、見たような気になる」のよう


な具合だ。


しかし私憤、私怨がそこまであることを私は知っている。


それを、おのが体に刻み込んで生きている人もいたりするのを知っている。



良いお年を!



私は人には言う。



しかし、絶対に自分には言わん。



私は1死んだ人と一緒に生きていく。



生涯喪中でやっていこ思う。




そんだけ。