十三の父

 
十三の父は、新宿の母とは何の関係もおまへん。

ついでに、ゴルゴ13とも関係ない。

大阪の十三には、むかし<十三トルコ>という名の風俗店が駅前にド~ンとあって、梅田方面から車で伊

丹空港へと向かっていた、團伊玖磨がネオンを逆に読んでしまって、ゲェ!?こここ、ここはピストル作

ってんの!とビックリしたと『パイプのけむり』のどっかに書いてた。

けど、その十三はじゅうそう。

十三はじゅうぞうで伊丹十三

その十三の父が伊丹万作

たしか新世界か新開地で観たんやけど、この伊丹万作監督の『赤西蠣太』は面白かった。

主演は片岡千恵蔵で、原作は志賀直哉

また観る機会があればうれしい。

ところで、その伊丹万作に『戦争責任者の問題』という文章があります。


 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていた

 という。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

 ここらあたりからもうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたもの

 との区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。

 たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほう

 をさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまさ

 れたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いく

 ら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 -略-

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、

 苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商

 人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵

 便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、とい

 つたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる

 身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うこと

 なしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも

 諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合

 わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているの

 ではないかと思う。

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろ

  う。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。


全文は青空文庫で読めます。



ほな。