『手塚治虫・覚書』から
後日本でただひとりの天才なのである。
ことがマンガであるため、問題の重大さが一般には理解されていない。戦後四十年は活字媒体による思想
の時代に見えるかもしれないが、それは戦前から引き継いだ残滓であって、戦後日本が生み出した思想で
はない。現代とは映像やら音楽やらの感覚的時代、無思想の時代である。無思想は現代メディアの特徴の
一つなのである。
手塚治虫は決して思想家ではない。何かを問いかけたり、何らかのメッセージを伝えるためにマンガを描
いたのではない。
手塚治虫は真の天才だからこそ、無思想なのである。ちょうどモーツファルトが真の天才であったのと同
様に、手塚治虫はその存在自体が思想であるかのような一個の単純な精神である。
手塚治虫の精神の中核にあるものは、巨きな空白、限りない空間それ自体であるような何ものかであり、
今までにない何ものかを体現した精神であるから、既成のどのような言葉でも表すことはできない。
唯一のマンガ家という以外に何とも規定できない存在を説明しようとして、戦後民主主義だの、ヒューマ
ニズムだの、ペシミズムだの、客観的視点だのという言葉がまとわりつくようになり、対象の持つ最初の
空白は見えにくくなっていったのだが、作品はそれらの言葉を超えて、つねに現実を幾分か離れたところ
で、軽やかに無邪気に動きつづけている。
それは「無思想の思想」ではない。手塚治虫ほどの希有の知性と能力を欠いていたとしたら、ただ「何に
も考えていない人」と言われるような意味での無思想なのである。
- 榊原英城 『手塚治虫・覚書』より