そりゃ海であっても山であっても・・・
まいどです。
今月は16日の友川カズキさんのライブ。
ライブもやけど、ワテ自身も予期せん再会なんぞもあって、忘れられんもんになりました。
友川さんの歌を聴いてると、上原專祿が浮かびます。
死んだ者は、生きてる者によって時々思い出されたりはするけど、いずれは忘れ去られるのやろ。
そんで、この世は生きてる者だけが、まるで自分の独占物であるかのように動いていく。
上原專祿は、「死者によって己れが裁かれる」といい、「死者と共に生きる」ともいうてる。
過去は単なる時間的経過の区切りのことやなく、過去は現在であり、現在は未来に結ばれている。
生きてる者は、過去を背負って生きていくものだということ。
具合な歴史観を持ったのかが知りたい思う。
それから、石原吉郎の『禮節』の一節が浮かんでくる。
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
というのが。
もうすぐ11月。
啄木やないけど、生活に殺されとうはないから、友川熱を一時的に封印して暮らし向きの何かと算段して
いかなアカンです。
なんや、生きとるも、死んどるも似たようなもん状態になる友川さんの歌あります。
それを最後に、今回の友川カズキさんのライブ報告お終い。
そりゃ、海であっても、山であってもいい、駆け込んでいって謝りたいと思う時がある・・・『桜の國の散る中を』
ほな。