シュティルナー的「反逆」をツギハギしてみた
抑圧を受けるのは抑圧者の罪ではなく、抑圧をはねかえすだけの力がないということ。
この非力、それが罪だとシュティルナーは言います。
己の非力を棚に上げて、国家の罪だ、社会の責任だと異議申し立てをしても、抑圧の構造それ自体はびく
ともしないのです。
シュティルナーの話を続けます。
ただ僕の征服しえないもののみが僕の力を制限する。そして制限された力をもつ僕は、一時的に制限され
た僕である。僕以外の力のために制限されるのでなく、むしろまだ足りない自分の力のために、自分の無
力のために制限されるのである。
罪は自分の非力にある。しかし現状の維持を望んではいない。
厭うべき固定よ!
シュティルナーは、身を起こして立ち上がれ(反逆)と書きます。
反逆、それは革命ではない。革命はつねに「新しい体制を目的」とし、諸状態の転覆、現存状態もしくは
国家あるいは社会の転覆であり、従って政治的もしくは社会的行動であり、従ってこの支配を廃したが、
支配者そのものを廃しはしない。
それは罪を自分以外に求めることであり「僕らの弱点」なのであると。
革命は新しい体制を目的とするが、反逆は、もはや僕らが整理されることなく、自分自身で自らを整理で
きるようにしてくれる。そして「制度」にはなんらの輝かしい希望をも置かないのである。反逆は現存状
態に対する戦いではない。なぜなら、反逆が盛んになれば、現存状態はひとりでに倒壊するからである。
それは単に、僕が現存状態から抜け出そうとする努力に過ぎない。僕が現存状態を見捨てるなら、それは
死んでやがて腐敗し始めるであろう。
ところで、こうしたシュティルナーの言葉を辻潤語に変換するとこうなる。
<辻潤『ふもれすく』より>
僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。それは、しかし世間に対するそれではなく、僕
自身に対してのそれである。自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいような
ことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばま
たただそれのみ。世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。
ここで、辻は相応のprideとせず、相応のvanity としている。罪は自分の非力にあるとしたのか。
辻は、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一が虐殺された後、たった一度だけ伊藤野枝との事を書いた。それが、こ
の『ふもれすく』。
辻は放浪先で一度、甘粕正彦と出くわしている。双方ともに一瞬立ちすくんだが、辻は何事もなかったよ
うに、彼の横を通り過ぎたとある。
その行動を、私は辻の思想によるものとと考えたい。
最後にシュティルナーは反逆者としてのキリストについて書いております。
イエスが、政治的状態の変化になんらかの救済をも期待せず、政治的闘争から遠ざかりながら彼
自身の道を辿ろうと欲し。政府やその反対者の眼に崇高に見えた一切のもの以上に自己を高め、
かつ彼らが甘んじて束縛されていたすべてのものから自己を解放した。
それゆえにそれだけに一層反逆者であった。
※甘粕正彦→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6
この非力、それが罪だとシュティルナーは言います。
己の非力を棚に上げて、国家の罪だ、社会の責任だと異議申し立てをしても、抑圧の構造それ自体はびく
ともしないのです。
シュティルナーの話を続けます。
ただ僕の征服しえないもののみが僕の力を制限する。そして制限された力をもつ僕は、一時的に制限され
た僕である。僕以外の力のために制限されるのでなく、むしろまだ足りない自分の力のために、自分の無
力のために制限されるのである。
罪は自分の非力にある。しかし現状の維持を望んではいない。
厭うべき固定よ!
シュティルナーは、身を起こして立ち上がれ(反逆)と書きます。
反逆、それは革命ではない。革命はつねに「新しい体制を目的」とし、諸状態の転覆、現存状態もしくは
国家あるいは社会の転覆であり、従って政治的もしくは社会的行動であり、従ってこの支配を廃したが、
支配者そのものを廃しはしない。
それは罪を自分以外に求めることであり「僕らの弱点」なのであると。
革命は新しい体制を目的とするが、反逆は、もはや僕らが整理されることなく、自分自身で自らを整理で
きるようにしてくれる。そして「制度」にはなんらの輝かしい希望をも置かないのである。反逆は現存状
態に対する戦いではない。なぜなら、反逆が盛んになれば、現存状態はひとりでに倒壊するからである。
それは単に、僕が現存状態から抜け出そうとする努力に過ぎない。僕が現存状態を見捨てるなら、それは
死んでやがて腐敗し始めるであろう。
ところで、こうしたシュティルナーの言葉を辻潤語に変換するとこうなる。
<辻潤『ふもれすく』より>
僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。それは、しかし世間に対するそれではなく、僕
自身に対してのそれである。自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいような
ことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばま
たただそれのみ。世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。
ここで、辻は相応のprideとせず、相応のvanity としている。罪は自分の非力にあるとしたのか。
辻は、伊藤野枝、大杉栄、橘宗一が虐殺された後、たった一度だけ伊藤野枝との事を書いた。それが、こ
の『ふもれすく』。
辻は放浪先で一度、甘粕正彦と出くわしている。双方ともに一瞬立ちすくんだが、辻は何事もなかったよ
うに、彼の横を通り過ぎたとある。
その行動を、私は辻の思想によるものとと考えたい。
最後にシュティルナーは反逆者としてのキリストについて書いております。
イエスが、政治的状態の変化になんらかの救済をも期待せず、政治的闘争から遠ざかりながら彼
自身の道を辿ろうと欲し。政府やその反対者の眼に崇高に見えた一切のもの以上に自己を高め、
かつ彼らが甘んじて束縛されていたすべてのものから自己を解放した。
それゆえにそれだけに一層反逆者であった。
※甘粕正彦→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6