書店のたな

その大型書店の担当者は泣いたと書いている。

彼女の担当する棚は、その分野では必読とされる本、新刊、入門書…と見事に関連付けられており、棚そ

のものが目録のようなものであり、彼女の仕事の水準を示す棚となっていた。

彼女が泣いたのは、決算間近の会社員が数人で現れて、棚ごと無造作に台車に載せて持っていったからだ

った。4~50万円分を無作為に買って、「金は現金ね」と言ったそうだ。

こんなことは、書店でなくてもある光景かもしれないけど。

・・・という話が載っている本を読んだことがある。

『書店の店頭から―本屋は私の学校だった』。編集工房ノア。著者は海地信さんといって、昭和24年か

ら、旭屋書店に勤められた方。1985年の出版。



梅田に用事があって、そのついでに大きな書店を2店ほど覗いた。

ずいぶんと、構成が変わっていて、本を探すことも出来なかった。これは、店が悪いのではなくて、私が

古いだけだけども。

構成だけでなく、棚の中がずいぶんと変わっていたように思う。

別に書店が悪い、読者が悪い、版元が悪いとそんなことは言わない。

ただ、棚に並べられた本が平べったいのだ。教えられることがないのだ。

私は学校で学んだ人間ではないので、読みたい本の案内人はプロの書店員に頼っていた。

そうした棚は、これとこれは前提的に読まないと駄目ね。それとこれは・・・と棚が教えてくれた。だか

ら行く書店は決まっていた。

80年代に入った頃から、書店の金太郎飴状態を指摘する声はあったが、いつのまにかスーパー金太郎飴

に変身している。棚はすでにコンピュータで管理されている。


70年頃から、大学卒が書店に入ってきた。個人的な動機は多々あるだろうけど、要するに大学生の数が

増えて就職口が広がっただけともいえる。

書店は一挙に勢いづいた。商店からの脱出を狙い店舗数も増やした。店頭では、大卒の彼らが様々なブッ

クフェアを企画し、一時的な賑わいを見せたこともあった。

そういう人たちが、今は棚の影に隠れてしまっているように思える。



そのうちに、環境保護の立場から「紙の無駄」を主張し、出版の統制が始まるかもと思ったりもする。

どうも、出版の危機なんていうと、情緒的な反応が多い気がする。

「えっ、あの本が絶版。文化の危機だぁ」。良書を守れ、良心的出版社を守れとなる。

今、文芸書や専門書の初版部数は千部程度だとされている。


「本」は紙と印刷と製本と企画(出版)と取次と書店と読者そして著者で成り立っている。

守らないといけないのは、出版社でも書店でもなくて、紙にインクのシミのついたその内容だ思う。


ところで、古書店をやりたいと思ったことがある。子供がケーキ屋をやりたいというのと同じ動機だ。

しかし、反町茂雄さんの『一古書肆の思い出』の数巻を読んで、これは無理と思った。

最近流行の新古本の世界とは全く違う。レベルが違いすぎた。

新刊書店は、少しやったことある。読む側にまわった方がいいと思い、すぐに譲った。


<おまけ>
小さい時に本屋をやりたかった理由はべつにある。

やらしい雑誌。

ナゼカ裏表紙が、高級時計の通信販売。

釣銭がいらんように、小銭を握り締めて、娘やおばちゃんでなくておっちゃんが店に立ってるときに裏表

紙の価格表示のところをおっちゃんに見せて丁度の小銭を渡す。

ドキが胸胸です。おっちゃんは必ず表紙を確認します。

せんでええのに。

うん?売ってくれへんのか?売ってくれます。嫌味します。

おれは、本屋になったら絶対にあんな嫌味はせんぞ。それにいっぱい読めるし。

本屋になりたかった。

そんな、たわけた動機でした。

すんません。