吉行淳之介と辻潤

iyhsさんの記事で、今日が吉行淳之介の命日と知りました。

そんなことで、再上映します。(2008.7.26)




吉行淳之介の小説『湖への旅』。

亡き父の知り合いだという老詩人Tが、家に現れていつまでも帰らない。

母は「詩人といったって、あんなに自尊心を無くしてしまっていては、もう駄目ね。ご飯ぐらいご馳走し

たっていいけれど、あのまま泊まり込まれたのでは困るわ 。最初が大切よ、はっきりお断りなさい」と

息子に云う。

ちなみにこのT老詩人。飯を食った上に拙い字の色紙を売りつけて、次の日の朝食代と汽車賃を巻き上げ

ている。で、この爺さんのモデルが辻潤。息子が淳之介で、母があぐり


最近、吉行淳之介の『詩とダダと私と』読んだ。

ダダイストの父=エイスケと私。亡父の血を確認して詩を書き始めた淳之介が唯一残した父への思い」と

腰巻の書いてある通りの本。

この本の中で吉行は「作品中のTさんはあくまで[Tさん]で他の何者でもないが、その母体となった人

物は辻潤氏なのである。そこで実際の辻潤氏との交渉について」書いている。


谷崎潤一郎の『鮫人』、生田春月『相寄る魂』、宮嶋資夫『仮想者の恋』…と辻をモデルにした小説はあ

る。しかし、辻以後の世代の作家による辻の話は少ない。

例えば、太宰治の『虚構の春』という作品にも辻潤の名は出てくる。

「僕が、どの程度に少年であるか、自己紹介させて下さい。十五、六歳の頃、佐藤春夫先生と、芥川龍

介先生に心酔しました。十七歳の頃、マルクスとレエニンに心酔しました。(命を賭して。)……ところ

が、十八歳になると、また『芥川』に逆戻りして、辻潤氏に心酔しました。」とこんな具合に。

また、山内我乱洞という人を介して坂口安吾辻潤と交流していたらしい。

 
そんなわけで、以下に引用する吉行淳之介の「実際の辻潤との交渉」は、辻のあとの世代の、しかも浮浪

末期の辻の実像を知る上で大変貴重なものとなった。

私は辻潤の研究をしているわけではありません。辻潤は師匠みたいな存在です。だから、虚像の多い辻と

いう人を可能な限り等身大で見て行きたいのです。

前フリが長くなった。以下『詩とダダと私』吉行淳之介からの引用です。

吉行淳之介という人、凄いです。こういう人は好きです。


穴だらけの汚れた羽織を着て、尺八を脇差のように帯に插んでいる異様な恰好だ。

氏の名前を僕は勿論知っていた。

「ですべら」の著者にふさわしい感じの詩人だとおもったわけだが、意外だったのは、ときどき氏は他人

の顔色をうかがうような厭な限つきをすることだ。

プライドを失った卑しいともいえる眼つきである。そういう眼つきは、たとえば氏が懐中から皺になった

紙片を取出して、「いいかオレの作品だ、よく開け」と威張った態度で朗読しはじめているうちに、チラ

リと現れたりする。氏はしばしは傲岸不遜な態度で、小銭をよこせと僕に要求するが、そんなときにもそ

の限つきはチラリと現れた。

そういう氏を僕は情ないともおもい、迷惑だともおもうのだが、やはり好きにおもう気持の方が強い。

そんな僕の気持を氏も見抜いていて「おまえはなかなかハナせる。ちょっと一緒に散歩しょう」などとい

う。ところで氏と散歩したときは大変だった。犬が氏の姿をみて吠えついてくるのである。

あるとき氏は自筆の書をもってきた。自作の詩を自分で書いたもので、見ごとな筆蹟だ。

その詩の文句を、僕は不思議にいまでも覚えている。

「港は暮れてルンペンの、のぼせ上ったたくらみは、藁で縛った乾がれい、犬に喰わせて酒を呑む」

というのである。

その書を僕に買え、というわけだ。僕はあまりしばしばのことなので少々うんざりして、わざと五十銭白

鋼を一枚だけ黙って差出した。氏に動揺の気配があったが、そのまま黙ってその書を置いて帰った。間も

なく玄関で訪れる声がする。

出てみると氏で、「さっきのは、あまり安すぎる。もう少しよこせ」と掌を差出すのだ。僕は、このとき

氏にたいして複雑な親愛感を持った。

数日経って、その話を詩人と称する友人にしたところ、「僕だったら、最初から持っている金を全部辻さ

んにあげてしまうんだがな」と抒情的な口吻で言った。僕は「なんて感傷的なたわいのない奴なんだろ

う」と腹の中で呟いたものだ。

その書は、僕の家が空襲で焼失したとき、一緒に焼けてしまった。惜しいことをしたとお

もっている。

作品の中のTさんの行動は、これとは幾分違って描いてあるが、この作品を読んだ詩人飯島耕一が僕にこ

う言った。「日本の詩人、というとこういう風に描かれてしまうから困る。しかし、言い切れないのだか

ら口惜しいよ」。

貧窮や苦痛の生活の中から生れた日本の私小説には、なまじの詩よりも、より一層詩的なものが多いとい

う説と考え合わせて、なかなか興味深かった。ここらあたり、簡単には片付けられぬ問題が含まれている

とおもう。