親子二代で歌われた歌と寺島珠雄

      カラス トマリ ユキ ツモリ

      サギカトオモイイタリシニ

      トブトコミーレバ

      ヤッパリ モトノ カラスナリケリ ヤマザクラ

      イチョウノキ サンショノキ

      デンキニ メッキニ デンシンキ

      タヌキハ ノンキデ ハチジョウジキ

     

辻まこと

この三年来、辻さんが『暦程』フェスティバルの二次会などで歌っていたものがある。…少年のころ、

歌われていたのを覚えていたのだと、わたしの質問に対して、辻さんは答えた。したがって、作者は辻

さんではないということになるであろう。しかし…辻さん自身が作者であっても少しもおかしくない、

そういう歌ではないだろうか。

・・・・宗左近『天使の歌』。


次に原作者の登場。


【辻 潤】

白山上にあった南天堂という書店の二階のレストランで、そこで当時(大正末・昭和初期)のいわゆる

アナ系の文学者やダダ的詩人などのたまり場になっていたのである。なにしろ無軌道な連中ぞろいなの

で、そこでは毎晩のようにランチキ騒ぎがあり(略)有名作家にならない前の林芙美子もときどき現れ

て、ヤケッパチにさわいでいた。そういう喧騒のなかで、年長者でもあった辻潤は、スカラー・ジプ

シーと称して、つかず離れず、いつでもひょうひょうとして、得意の尺八を吹奏したり、女給相手に

歌ったりしていた。…独得の辻ぶしが、いまだに僕の耳の底にのこっている。それこそ「唯一者」の虚

無的世界を逍遥する姿のように、ぼくには感じられた。

・・・岡本潤『本の手帖』1965年44号


 
関西洋画壇の長老、というのがどこかの新聞で見た田川寛一さん(行動美術)への尊称だったが、初対

面を酒席でした私には、辻潤のウタを唱ってくれた人という印象がなつかしく残っている。


辻潤が作って歌っていた歌が、せがれ辻まことに承けつがれて、まるでせがれの自作であるかのよう

な雰囲気をたたえていたというのはとてもいい話で、格別に訂正を要しないことではある。だが、話の

面白さ、味わいという点で、辻潤が出てきた方がもっといいような気がするので書きとめた。


・・・以上は、寺島珠雄アナキズムのうちそとで』からの要約と引用。


寺島の詩を「一プクのやまと絵だと感じた」と辻まことはその感想を葉書で送ったりしている。



寺島珠雄

1970年に釜ヶ崎のドヤに住む寺島珠雄は「労務者渡世」を創刊する。

1972年頃から寺島珠雄とは無関係に、私も釜ヶ崎のドヤにいた。

その頃は「字なんか書いている奴」状態だったから、誰にも興味なかった。


ある時、「題材は何ぼでもころがってる」と三角公園で寝てるオッサンを指差して言った詩人がいた。

腹立ったから、どつこう思うたけど、その前に取り巻きにどつかれた。

今も健在のようだ。どうでもいいし、別の話だ。


1999年9月発行の『南天堂-松岡虎王麿の大正・昭和』が寺島珠雄の最後の著作だ。

「しかし事実は常に一つではない。わが『南天堂』論、大正・昭和-松岡虎王麿、庭内に這い松などあ

りしやしらず、最後まで直しを入れて、ガンバル。(99.7.10)」

と後書きを残し、同月22日に亡くなられた。


寺島珠雄年譜→http://www.empty86.jp/warera/nihil/nempu_t.html

年譜を含んだ全体のHP→http://www.empty86.jp/warera/


釜ヶ崎のドヤ街。私の近くにいたということを知ったのは、ずいぶんと後の話だ。

縁がなかったのだからしょうがないけど、悔しい気もする。

とにかく寺島珠雄の『南天堂』はとんでもない本であることはまちがいない。