「日陰茶屋事件」辺りまで読んだ

瀬戸内寂聴(晴美)の伊藤野枝の評伝?『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』を読み続けている。

「葉山日陰茶屋事件」くらいまで読んだ。

瀬戸内は資料を忠実に調べて書いているけど、人の行動する理由が男と女の関係や人と人との関係に

しかないような書き方をしている気がする。

だから、野枝に去られた辻潤シュティルナーの『唯一者とその所有』を叡山に籠もってまで訳し続け

た姿を描いても(けっこう魅力的に書いてるけど)、訳した本の内容=思想に触れていないし、辻の行

動の根拠をそこに求めてもいない。


安モンのソクラテスでもあるまいし、嫁ハン運が悪いから辻は哲学に走ったわけでもない。

哲学をやるから嫁ハンに逃げられるのか?

嫁ハンに逃げられたから哲学をやるのか?

いずれにしても、そんな話ではないのである。

もう少しで読了するが、いずれ詳しい話は読了後。

・・・すいません。この言い回しは野球少年のひとりごとさんのパクリであります。m(__)m


ところで、「葉山日陰茶屋事件」はこんな事件だ。

  <大杉栄情婦に刺される
   被害者は知名の社会主義者
   兇行者は婦人記者神近市子
   相州葉山日陰の茶屋の惨劇> ・・・当時の東京朝日新聞から。

大正5年(1916)。葉山の日陰茶屋で大杉栄は神近市子に刺される。

大杉は一命をとりとめるも、神近市子は傷害罪で懲役2年の実刑判決を受け収監された。

大杉には入籍している妻の堀保子、神近市子、辻潤のもとを去った伊藤野枝と三人の女がいた。

その関係に対し、大杉は自由恋愛(フリー・ラブ)ということを主張していた。

その大まかな内容は、互いに経済的に自立する。同居することを前提にしない。互いの性的自由を保証

するというものだった。


自由恋愛という。

しかし男女4人の間のそれではない。実質は大杉対3人の自由恋愛だ。

自由は競争を伴う。

保子は感情を度外視すると戸籍上の妻という立場を持つ。

野枝は、もっとも大杉と結ばれている。

不安定なのは神近市子だ。

神近は、大杉や野枝からも「自由恋愛」という思想を理解していないと叱責される。私には、それが理

解できるなら人生は多少は気楽なものになるのだろうと思うたりもする。

そして保子からも冷たくあしらわれる。当たり前だ、保子から見れば市子は大杉の愛人である。

自由恋愛の原則と大杉は言うが、この当時の4人の経済は保子の稼ぎで成り立っていた。

その大杉に金が入る。待ちに待った新雑誌創刊のための資金だ。

大杉の資金に頭山満が関連しているという。詳しいことは、私はまだ知らない。

金が入った大杉は、葉山の日陰茶屋に入る。野枝も一緒だ。

どんな男もそうであるように「一人で行く」と保子や市子には話している。

そうした流れで起きた事件である。


ひとつだけ頭に入れておくことがある。

この頃はまだ「姦通罪」が存在したのだ。

Wikipediaによれば、その時点で姦通罪はこういう刑だった。

刑法(明治40年法律第45号) 第183条
有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ
前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縱容シタルトキハ告訴ノ效ナシ

(夫のある夫人が姦通したときは二年以下の懲役に処す。その夫人と相姦した者も同じ刑に処す。
前項の罪はその夫人の夫の告訴を待ってこれを論す。ただし夫が姦通を縱容したときは告訴の效なし)

姦通罪は必要的共犯として、夫のある妻と、その姦通の相手方である男性の双方に成立する。姦通罪は
、夫を告訴権者とする親告罪とされた。また、告訴権者である夫が姦通を容認していた場合には、告訴
は無効とされ罰せられないものとされた。とある。

結婚は家と家との契約であり、婚家の跡継ぎを生むことが嫁の第一の役割であり、恋愛がスキャンダル

であった時代である、大杉の主張もそういう背景を理解する必要はある。

今とは時代が違うのだ。

大杉の最初の妻である堀保子、伊藤野枝ともそうだけど、大杉は夫婦別称の先駆け男でもある。

野枝も辻の籍を正式に離れ、伊藤野枝に戻るのは大正6年。事件の翌年のことになる。

つまり、辻の家を出て「葉山茶屋事件」を経て、その翌年に晴れて伊藤野枝に戻ったのだ。

この時間のかかりかたについてはいずれ書く。というかもう少し調べている。


ところで、私は他人の色恋は尊敬も軽蔑もしない。多少うらやましいと思うことはあるけど。

伊藤野枝は自由恋愛についてこんな事を書いている。

伊藤野枝『別居について』

大杉さんとの愛の生活が始まりました日から、私の前に収まっていた心持がだんだん変わってくるのが

、はっきり分りました。前にいいましたような傲慢な心持で、保子さんなり、神近さんなりのことを考

えていました私は、二人の方のことを少しも頭におかずに、大杉さんと対っている事に平気でした。そ

うして、私がその自分の気持に不審の眼を向けましたときに、またさらに違った気持を見出しました。

「独占」という事は私にはもう何の魅力も持たないようになりました。吸収するだけのものを吸収し、

与えるものを与えて、それでお互いの生活を豊富にすることが、すべてだと思いましたときに、私は始

めて私達の関係がはっきりしました。

 たとえ大杉さんに幾人の愛人が同時にあろうとも、私は私だけの物を与えて、ほしいものだけのもの

をとり得て、それで自分の生活が拡がってゆければ、私には満足して自分の行くべき道にいそしんでい

られるのだと思います。(1916年9月)


私は僻みっぽい性格なので、こんなのを読むと「言うとれよ」とつぶやいたりする。