ケータイ小説

昨日の大阪ローカルニュースでやってた。

ケータイ小説」がけっこう人気らしい。書籍化されたものもあるそうだ。

ケータイ小説」なんてぜんぜん知らんかった。

これ「ケータイ小説」であって「携帯小説」と書けないだろう。

失われた時を求めて』なんか携帯出来そうもない。

べつに誰でも小説が書けるようになる新機種のケータイが発売されたわけでもなさそうだし、ブログなん

かと同じように書いたものを公表できる場が出来たということだろう。

まあ、ケータイだろうが万年筆だろうが、ちびた鉛筆ナメナメだろうが、そんなのは書くツールの問題で

あって書いたものとは何の関係もない。

小説はボサボサ頭を掻き毟って、原稿用紙を何回も丸めて捨てながら書くと決まってもいないし。


ちょっと見てみたけど、画面上の制約もあったりするのか、かなり短い文章で書かれているようだ。野坂

昭如のような句読点のない長文を書く人は出てこないだろうと思う。

それと書く方、読む方ともに同じ世代みたいだから短い文章でも成り立つのかもしれない。

何でかと言うと、ある世代から下は活字より、テレビや映画、ビデオ、ネット、コミックと多くの映像や

画像を共通の記憶としているから、思い起こされる情景を短い言葉でつないでいけば何となく話が出来上

がるのかも知れない。

若い人の書いてるもので、これはあの映画のこの場面をイメージしてると思ったりすることがよくある。

教科書に出てくる小説家からは、そういう感想はでてこない。


ところで、小説と作文は違うらしい。

小学校の頃、先生が作文は本当のことを書きなさいと言ったりした。これは誰もが経験してると思う。

そんな小さい頃から本当のことが書けたら、残りの長い人生をエンセーヒカンしながら生きていかんとア

カンから大変なことになるような気もする。

織田作之助は、「本当のことが何かわかりません」と言って、股旅物を書いたって聞いたことがある。

じゃあ、ウソ書いたら小説になるかというと、そうは烏賊の金●でして。下品ですんません。

ここいら辺りになると、わからんようになる。

しゃあないから、「小説って何や?」を「誰を小説家と思うか?」と言うふうに置き換えてみたりする。

好きな作家を頭に浮かべる。

ほんでも「なんで、その作家が小説家やねん?」と突っ込まれると同じ事になる。

苦し紛れに、ISBNコードの分類が文学になってるからって答えてもしょうがない話だ。


書籍化された「ケータイ小説」を歩いて五分のところにある書斎(区立図書館です)でちらっと読んだ。

行間が空いてるのと、10ポイント(それ以上かも)の活字を使っているから年寄りには読みやすかった。

あくまで物理的にだけども。


まあ、そんな話でした。