1944年11月24日

辻潤の最後です。

昭和19年(1944)7月、放浪に終止符。東京に戻り上落合の静怡寮に住む。

11月24日。看取る者もなく死去、餓死。染井の西福寺に葬られる


この24日に何か書いてみようかと思ってたのですが、書けなかったのではなく、忘れてしまいました。

11月24日は正確には、死んだ日ではなく「死体」が発見された日ということになるのでしょうけど。

墓は東京は豊島区駒込の西福寺にあります。東京時代に二度ほど行ったりしました。


私の中に辻潤がストンと入ったのは、格好つけるわけでもなく『にひるのアワ』(泡の字がないのでカナ

に)というエッセイの冒頭の一行です。

これを、どこかの偉い人や、飲み屋のおっさんが言ったとしても「なにを抜かす」となるのでしょうけ

ど、辻潤だと「そうですなあ」となったのです。

こんなんです。


    一切は生きてる上の話だ。


そんだけです。

どうも、高い所から私を引き上げてくれるような人より、下から押し上げてくれる人が好きなようです。


少し長いですが、以前も一度引用しております、息子辻まことの『父親と息子』からのものです。

 *     *     *     *     *     *     *     *

彼(辻潤)は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された。辻潤は佯狂だという人がいる。

しかし佯狂もまた狂気であると私はおもう。佯狂の様に見えたのは、彼の場合に百パーセントの狂人では

なく、狂気と正気が共棲していたためだ。機能障害による狂気ではないからだ。おそらく精神が自衛上採

用した最後の手段だったとおもう。

最初の発作が起こった時(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるため、やっとのおも

いで自動車に乗せた。その時私は行き先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は私にこういった。

― お互い誠実に生きよう。

彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きようと

しているのだ」といっていたのだ。一寸まいったのである。


日常の現象生活というものは、いつの時代だって個人に挑戦してくる。量的世界の体制は、その組織と観

念を認めるものだけをゆるす。コミュニズムファシズムアナーキズム、等々の差異は、ひっきょう一

人の人間の生命に抽象的に生まれた美と真実の質的世界から見れば、比較的重要ならざる差異であって、

等しく無縁なものだ。

辻潤はキリストではない。

彼は人間を救済する使命を抱くほど宗教的ではない。彼は超絶対的な世界観すら拒否した正直な男だっ

た。彼が挑戦に応えて試みた方法は、表象されたありのままの自己だけだった。

自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意していたのだ。これが辻潤の美学だっ

たと私はおもう。

ショーペンハウエル流な「意志」の権化から生まれた自我意識の世界から見れば、これほどはじめから勝

敗の明らかな闘争もないであろう。屠殺を経験するために自らおもむく牛のようなものだった。

彼は試みたのだ。人間がそれを試みてみた証拠をともかく辻潤は残した。

彼は「彼」以外であることを拒否する「勘」を所有して生きてきた。

その存在の意味は、彼には不要なものだった。意味はあとに残されるものだ。

息子という不利な条件においても、私はその意味が自分のかたわらに置かれたことを好機と思っている。

辻潤はも早一つの意味だ。意味だとおもうものにとってのみ・・・。

従って私は辻潤の無名性を高く評価する。

無名は彼の真価の証明だ。彼の王国はマーケットからずっと遠い。
 
                         -辻まこと『父親と息子』(一部要約)より