『逝きし世の面影』

名もなく貧しく美しくと言ったりする。

貧しくとも、この人々は本当の豊かさを知っているなんて事もよく言われたりする。

もしそれが本当なら、私はいつも豊かで美しい。

まあ、これはヒネクレ親父の憎まれ口だ。

しかし、貧しさを補おうとする知恵や、貧しさと闘おうとする意欲が美しく見えるのは事実だ。

どうも、人間は何かが欠落していないと美しくも豊かにもなれないケッタイな生き物かも知れん。


1998年に九州の葦書房から出た、渡辺京二の『逝きし世の面影』。

絶版となっていたが、平凡社から再刊となっていた。

幕末・明治の日本社会を来日西洋人の記録から再現し、後進国日本の民衆の生活が彼ら西洋人に与えた深

い感動を伝えている。

「子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごと

き普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱

心――この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」とまで言っている。


榊原英資西部邁櫻井よしこ筑紫哲也なんて立派な皆さんが賞賛している。

だいたいが、古き良きニッポン調で嫌になる。

松本健一の「渡辺京二があたかも手品箱のなかから次々ととりだす異邦人たちの日本見聞記は、たしかに

十九世紀日本が「ひとつの文明」、つまりシビライズされた人間の社会であったことを夢見させてくれ

る。(略)だが、にもかかわらず、日本はその文明を滅ぼして「開国」せざるをえなかった。そこに、日

本という国の哀しみと、近代化の必然性がある。」(松本健一、「図書新聞」99年2月27日号)ぐらいが

まともなところか。

もし読む機会があっても、くれぐれもツマラナイ日本回帰などに迷い込まないでくなはれ。

まあ、A5版で500ページあるから読むのも大変やけど。


著者の渡辺京二はこう言っている。

「文学にしろ音楽にしろ、近代の持つ非常に豊かで感動的なものと、近代の名のもとに人間すべてを飲み

込んでいくような恐ろしいメカニズムとは、実は無関係ではない。そもそも、人類の長い長い歴史の中

で、たかだか三百年前に始まった近代になって、ようやく人間が"正しい存在"になって、それ以前はすべ

て無知で耐え難い歴史であるなんてことはあり得ないでしょう。こういう感覚が大事で、人権思想や健全

ヒューマニズムだけが人間を規定しているわけではない。」


貧しさは美しさを生むと書いた。

だからといって「貧しい社会」の実現のために活動する政治家が生まれたりすることはない。

倒産を経営目標にする経営者がいたりすることもない。

欠落を補うものは文化だ。

その文化がスカスカになると、世の中も薄っぺらいものになる。


そんな気がする。