アホとボケ

   
松竹新喜劇は芝居だ。

当たり前を言うなと言われるかも知れないが。

小さい頃から観ていた二つの新喜劇。松竹と吉本。

この二つの違いを考えると、松竹新喜劇は芝居だ!という結論になるのだ。

松竹新喜劇は人情仕立ての教訓劇のような作りになっている。

だから私は、藤山寛美がいなかったら関心もなかった様な気がする。


なら、吉本新喜劇は何なのだ?芝居ではないのかという事になる。

お笑いの起承転結は、ネタふり→ボケ→突っ込み→落ちというのが基本となる。

吉本新喜劇に台本はあるが、台本は「ネタふり」と「落ち」の部分を押さえていればいいような仕掛けに

なっている気がする。

笑いの中心の「ボケ」と「突っ込み」は台本とは離れて役者同士の独特のやりとりで作られている。

岡八郎のオクメ、原哲男のカバ、室谷信夫のハゲ(玉ねぎのたたり)、サルにも各種あって間寛平のサ

ル、谷しげるのポケットモンキー、中山三吉のエテ吉、他にも帯谷のポット…きりがない。

こうした役者達が、集団でボケたり、突っ込んだりするところに面白さがあるように思う。

そうなると、吉本新喜劇は集団漫才と言っていいような気もする。


松竹新喜劇は「アホ」であり、その代表が藤山寛美だ。

この「アホ」は損得を抜いた善意のかたまりのような存在だ。

同じように、吉本新喜劇は「ボケ」であり、その代表が花紀京だ。

この「ボケ」は本音のかたまりのような存在だ。

花紀京の「ボケ」は松竹新喜劇的な「教訓」や「モラル」を排除するか、茶化すか、意味を剥奪する。

私は、花紀京岡八郎とコンビを組んでの日雇い労働者役が最高に好きだった。

その「ボケ」ぶりは、人間の本音のようなものを浮き彫りにしてたような気がする。

この役で、花紀京は「京三」という役名で登場する。この京三というのは本名だ。

花紀京の本名は石田京三。横山エンタツの息子だ。

これも面白いところだ。役者は役作りするのが普通だけど吉本新喜劇はそうではなかったりする。

役者の私生活の部分(例えば借金)を芝居の中でどんどん攻めたりする。

虚と実=素と役をごちゃ混ぜにしたような所に面白さがあるのだ。

ようするに虚でありながら実を持って演じるという際どさがオモロイのかも知れない。


中途半端にそんだけ。


・・・東京の人に「大宮デン助」の記憶は残ってるのだろうか?