秋田實のこと

  
秋田實は東大在学中を除けば、そのほとんどを大阪で暮らした。

1905年(明治38)に大阪は玉造で生まれ、1977年に72歳で亡くなっている。

秋田實は大阪の財界でなくて漫才界の中心にいた人であり、漫才の理論的指導者且つ組織者だった人だ。

東京帝国大学支邦哲学科に進み、武田麟太郎の『辻馬車』に参加して小説を書いたりもしている。

その後、左翼運動に入り林熊王の名で『犬-或る工場の一記録』とか『工場実話小説・首切り反対だ!』

といったものも書いているらしい。

読んだことはない。それと、この辺りの事は秋田自身も多くは語っていない。


それはともかく秋田實はこんな事を書いている。大阪高校(現大阪大)の時に、丸善の洋書売り場で『カ

レッジ・ユーモア』という雑誌を買って帰って、半徹でそれを読み「えらいことを決心した。『世界一の

笑話の作大家になる。明日から、毎日、笑話を三十ずつ憶える』、そう頑張って宣言すると、藤沢はあき

れて『そんなこと、出来るか』・・・」(『私は漫才作者』秋田實より)

ここであきれかえっている藤沢とは作家の藤沢恒夫のことだ。藤沢は今宮中学から大高、東大とずっと一

緒の学校に行った秋田の友人だ。


例えば大宅壮一は「秋田君があのままずっと東京に残っていたならば、高田保などとはちがった風格の作

家になっていたにちがいない。もっとも、東京という土地は、秋田君のような才能をのばすに適していな

いかもしれない」と言っている。(同上)


そんな、秋田實は漫才のことをこう書いている。
漫才の笑いは、言葉と言い回しによる面白さが中心で二人の人間の立ち話である。雑談と言ってもいい

し、無駄話でも世間話でもかまわない。時には借金の話でも、縁談の相談でも。内緒でも差し支えない。

但し、客席の人達に聞かれるのを承知の内緒の話である。兎に角、客席の人達と話をする代わりに舞台の

二人が話をするのである。客席の人に注釈や予備知識なしに分かって貰える世間話を、舞台の上で十五分

から二十分の間するのである。それが戦前の漫才が築き上げた土台で、だから漫才の二人の世間話は、平

凡な暮らしの打ち明け話なのである。ドラマの世界は、平凡ではなく、事件があり葛藤があって、その意

味では平凡が殺されるのである。平凡な生活は誰しもが、つい詰まらない詰まらないとこぼす生活ではあ

るが、毀(コワ)されたら大変である。漫才的には平凡な暮らしが一番しあわせで、その楽しさを言葉と言い

回しの新味と妙味で言い表そうとするのが、漫才の笑いである。(『私は漫才作者』秋田實より)

むかし、NHKの朝ドラで『心はいつもラムネ色』というのをやってたけど、これ秋田實を主人公にした

ドラマやった。秋田を新藤栄作が演じてたそうだけど、観てない。

秋田實には引用している『私は漫才作者』があるが絶版だ。

しかし、富岡多恵子に『漫才作者 秋田實』があり、これは今でも流通している、と思う。

平凡社図書目録によると・・・より漫才を偏愛する著者による秋田實の傑作評伝。若き日の社会主義運動

家が、横山エンタツとの出会いにより漫才作者として誕生し、戦中・戦後を生きる姿を描き出す。・・・

とある。しかも解説が朝倉喬司だ。

そんだけ。