場所の記憶

カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク・・・。
武田麟太郎の『釜が崎』は、こんな書き出しで始まる。
私も17歳で家出してからのしばらくをここで暮らした。
血縁も地縁も関係の全部を投げ出して、住所不定の無名の一人として生きること。
釜ケ崎も山谷も社会が作り出した問題ではあるけど、それだけでもないと思っている。
世の中がどう豊かになろうと、改善されようと、人はいつも釜ケ崎的な何かを内に秘めている気もする。
その何かに忠実であるかどうかは、この社会で生きていく為に必要だとされる様々な規則を受け入れるか、拒否するかにかかっているように思ったりもする。
多くの人は、規則を受け入れることで、生きること自体の葛藤を遠ざけているようにも見える。
私はいっこうにブンガク的な頭もしてないけど、そんなのを読んでみたりするのも、この「何か」を探りたいのと、そこには、規則を外れた気持ちよさがあったりするからだ。
働くというのは、体を使い汗を流すことと今でも思っている。
その通りの暮らしをしながらも、社会的に有用な労働を行いながらも忌み嫌われ、蔑視され、労務者という言葉で括られたりもする。
釜ケ崎的自由は、実際にはそういう仕打ちを受けることの代償としてあるのも事実だ。
しかし、無名のまま死んでいく自由でもある。
「清潔で単純に生きたい」と辻潤は書いた。
私が若い時期のしばらくを暮らした場所こそ、それが出来る場所だったと思っている。
だから、その記憶だけはぜったいに消すことはないのだ。
 
そんだけ。