五月三十・三十一日
一切は生きている上の話だ・・・いきなり辻の潤さんは書いたりする。
飲み屋で同席したオッサンが同じ事を言っても「何ゆうとんじゃ!アホか!」と言い返すだろう。
辻の潤さんがそういった時、そやなぁ!ホンマになぁ!となるのは、私がこの人を好きやからだろう。
こんな事を書いた辻の潤さんに出くわしたのは、今はもうなくなった京都の駸々堂京宝店。
荒川洋治の 世代の興奮は去った ランベルト正積方位図法のなかで わたしは感覚する という
一節で、そやなぁ、そろそろお開きにしてもええかなぁ?と思い出した頃でもある。
思うまま・・・は辻潤の口癖みたいなもん。
辻潤が最初に出した本が、ロンブローゾの『天才論』の訳本だけど、その序文は「思うまま」だったりする。
それから、辻の潤さんは、シュティルナーの『唯一者とその所有』を訳したり、伊藤野枝との別れがあったりで
なんやかやと、この世に生きてると誰でもそうであるように、いろいろあった。
お互い誠実に生きよう・・・とうとう天狗になって、車で病院に連れて行かれる時にそう言った。
連れて行った息子のまことも「ちょっと、まいった」と書いてるけど、私もまいるのだ。
有り難いことに、死んでしまえば何者でもない状態に戻れる。
しかし、この何者でもないというのを生身の体でやってみると、かなりキツイもんがある。
16の歳に、たわけた夢をみて家を出た。
現住所は空の下で、名前は人が付けたものならあるという状態で、行き着いた先が釜ケ崎。
そこしかあらへんかったのだ。
生まれたら、名前を付けられて、出生届が出されてお上に存在を認知されて、学校に行って、この世で生
きるルールを教えられたりするわけやけど、そっから外れると、生きづらいというか、この社会で生きること
を拒否されたりする。
住民票ひとつないというのは、そんな具合なことでもある。
こんな恐怖を回避する方法は簡単ではある。この社会での役割を忠実に果たせばええのだ。
真面目な親、真面目な社会人、真面目な国民・・・。
ほんでも、そんなんは<自分に対して真面目>という事ではない。
辻の潤さんの「思うまま」とか「お互い誠実に生きよう」というのはそんなことや思う。
人間が自分に対して正直に生きて行こうとする程、だんだん世の中に生存の道を与えられなくなっ てゆくということだ。簡単にいうと食えなくなって行くという妙な現象だ。 僕は馬鹿でも間抜けでもなんでも、出来るだけ自分にたいして忠実に生活して生きたいものだと望 んでいる。-辻潤『思うまま』
平たい書き方ではあるけど、潰されるかも知れない!という恐怖を人生のド真ん中に置いても、出来るだ
け自分にたいして忠実に生活して生きたいものだ、と書いているのだ。
どっちにしろ、こんなことを書いてる人に出くわしたのは初めてだった。
ニイチェは「超人」を説いた。スチルネルには「超人」の要はなかった。 「超人」は「人間らしい人間」、「真人」などと同様、スチルネルには無用な幻影である。 自分は「血肉の自分」で沢山である。(仏教の「即身成仏」参照) 人は生まれながらその人として完全である、その人として生長し、その人として死ねばそれでいい のである。 「真人間」にも「超人」にも「犬」にも「仏」にもなる必要もなければ、また他から「なれ」と命 令を受けることも無用なのである。-辻潤「自分だけの世界」
五月の末に、そんな辻の潤さんの書画展がある。
行ってみようと思うてる。
そんだけ。
●画像は辻潤の書で「月落ちて 鳥鳴いてしまえば それまでよ」と書いてある・・・らしい。^^;