上野英信の「闇」
長い引用ですが、写しておきます。
「筑豊の闇が私をつつんでくれなかったとしたら、私は果たしてどうなっていたことか。そう想像するた
びに、血が凍るような戦慄に襲われじにはいられない。」
「それにしても、不思議な闇の絆であったと思う。」
関連して過去の記事を読んで頂ければありがたいです。
「私の原爆症」
あえて誤解を恐れず告白するが、この二十三年間、私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、と
いう暗い情念にとらわれつづけてきた。
学徒召集中のことだが、広島で原爆を受けたその日以来、この気持はまったく変らない。おそらく、死ぬ
までこの情念から解放されることはあるまい。
よく人は原爆症のほうは、と私にたずねる。が、私にとってどんな肉体的な障害の苦しみよりも大きいの
は、この暗い情念から逃れることのできない苦痛である。これこそ、もっとも悪質で致命的な原爆症とい
うべきかもしれない。もちろん私とて、このような呪われた状態のまま斃死したくはない。なんとかして
一日も早くこの苦しみから自由になりたいし、健康と光明をとりもどしたい。しかし、いつか、この絶望
的な症状は私の骨のずいまで侵蝕してしまうだろうという不吉な予感が、たえずわたしを怯えさせる。
私が広島での被爆者の一人であることをなるべく隠そうとしてきたのも、じつはもっぱらそのためであ
る。被爆者であることを知られるのが恐ろしいのではない。アメリカ人を皆殺しにしたいという、ついに
果たされることのない情念に私がとらわれているのを知られる恐れからからである。めめしいといえばこ
れほどめめしいことはない。卑屈といえばこれほど卑屈なことはない。
しかし、どんな美しい思想も、建設的な平和の理論も私をこの陋劣な苦しみから解き放ってくれない。す
るどい放射能の熱線が一瞬にして石畳に焼きつけた人影のように、この黒い陰も私から消え去ることはな
いのである。ひょっとしたら、生きているのは私ではなく、その黒い影だけかもしれぬ。
なにしろこんな病的な状態だから、もとより私には平和について語る資格などあるはずもない。「三たび
許すまじ原爆を」という歌があるが、そんな歌さえくちずさめない気分なのだ。三たびも四たびもない。
私はいまなお一度目を許すことができないのである。誰がなんといおうと、ぜったいにあの一度目を許せ
ないのである。さらにいえば、誰かのせりふめくが、それを許す私を許せないのである。
・・・(略)・・・
歌集『さんげ』『耳鳴り』を遺して原爆症に斃れた正田篠枝さんの称名の声のみが、いまも私の耳にあざ
やかである。・・・(略)・・・私がおとずれた夜、彼女は死の床ときめたベッドに私を休ませ、みずか
らは傍らの机に向かって夜もすがら、南無阿弥陀仏を唱えながら、なおも必死に名号を記しつづけた。
---何もかも、あてにはなりませんのですよ。
「玲子ちゃん」という被爆少女をえがいた作品の中で、彼女は「あてにならないものをあてにして、いっ
しょうけんめいに努力する、人間の哀れさ、悲しさを、涙のまなこで、黙って、みつめながら」こう思う
のである。
末期の思想を中核としてもたない平和運動は、いかなる意味においても存在理由をもちえないだろう。平
和への希求は、いまさらいうまでもなく、それらしい気運に同調してみずからを解消することではないは
ずである。私は永劫に救われることのない奈落の底にあって、わが殺意のやいばが、われとわが身を切り
きざむ熱さにたえるほかはない。
-『骨を噛む』より(初出「展望」1968.10)
あえて誤解を恐れず告白するが、この二十三年間、私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、と
いう暗い情念にとらわれつづけてきた。
学徒召集中のことだが、広島で原爆を受けたその日以来、この気持はまったく変らない。おそらく、死ぬ
までこの情念から解放されることはあるまい。
よく人は原爆症のほうは、と私にたずねる。が、私にとってどんな肉体的な障害の苦しみよりも大きいの
は、この暗い情念から逃れることのできない苦痛である。これこそ、もっとも悪質で致命的な原爆症とい
うべきかもしれない。もちろん私とて、このような呪われた状態のまま斃死したくはない。なんとかして
一日も早くこの苦しみから自由になりたいし、健康と光明をとりもどしたい。しかし、いつか、この絶望
的な症状は私の骨のずいまで侵蝕してしまうだろうという不吉な予感が、たえずわたしを怯えさせる。
私が広島での被爆者の一人であることをなるべく隠そうとしてきたのも、じつはもっぱらそのためであ
る。被爆者であることを知られるのが恐ろしいのではない。アメリカ人を皆殺しにしたいという、ついに
果たされることのない情念に私がとらわれているのを知られる恐れからからである。めめしいといえばこ
れほどめめしいことはない。卑屈といえばこれほど卑屈なことはない。
しかし、どんな美しい思想も、建設的な平和の理論も私をこの陋劣な苦しみから解き放ってくれない。す
るどい放射能の熱線が一瞬にして石畳に焼きつけた人影のように、この黒い陰も私から消え去ることはな
いのである。ひょっとしたら、生きているのは私ではなく、その黒い影だけかもしれぬ。
なにしろこんな病的な状態だから、もとより私には平和について語る資格などあるはずもない。「三たび
許すまじ原爆を」という歌があるが、そんな歌さえくちずさめない気分なのだ。三たびも四たびもない。
私はいまなお一度目を許すことができないのである。誰がなんといおうと、ぜったいにあの一度目を許せ
ないのである。さらにいえば、誰かのせりふめくが、それを許す私を許せないのである。
・・・(略)・・・
歌集『さんげ』『耳鳴り』を遺して原爆症に斃れた正田篠枝さんの称名の声のみが、いまも私の耳にあざ
やかである。・・・(略)・・・私がおとずれた夜、彼女は死の床ときめたベッドに私を休ませ、みずか
らは傍らの机に向かって夜もすがら、南無阿弥陀仏を唱えながら、なおも必死に名号を記しつづけた。
---何もかも、あてにはなりませんのですよ。
「玲子ちゃん」という被爆少女をえがいた作品の中で、彼女は「あてにならないものをあてにして、いっ
しょうけんめいに努力する、人間の哀れさ、悲しさを、涙のまなこで、黙って、みつめながら」こう思う
のである。
末期の思想を中核としてもたない平和運動は、いかなる意味においても存在理由をもちえないだろう。平
和への希求は、いまさらいうまでもなく、それらしい気運に同調してみずからを解消することではないは
ずである。私は永劫に救われることのない奈落の底にあって、わが殺意のやいばが、われとわが身を切り
きざむ熱さにたえるほかはない。
-『骨を噛む』より(初出「展望」1968.10)