『かばねやみ』

  ここに来てから約一ヶ月あまりになる。ここは昔から「三五反」で名高い奥州の石巻という港

  で、北上川の河口である。

  港に近い松厳寺というお寺-その寺の和尚の書斎を占領して私は毎日本を読んだり、手紙を書

  いたり、タバコをふかしたり、ゴロゴロねたりしているのである。

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  この辺ではなまけ者のことを「かばねやみ」といっている。かつて柳田国男氏のお弟子さんの

  著『聴耳草紙』という本をよんだ時、私は初めて、「かばねやみ」という言葉を覚えて、中々

  いいことばだと思った。そうして、古い日本の話に「かばねやみ」が出世する話がたくさん残

  っているのを愉快にかんじた。

  たしかに米を喰うの人種の一種の風土病なのかも知れない。自分も当然「かばねやみ」の仲間

  入りをする資格は充分あるが、ただ断然出世しないだけはたしかである。

  ---略---

  かばねやみ 港はふける ルンペンの

  のぼせあがった たくらみは

  わらで束ねた干し鰈

  犬にくわせて酒を飲む

  むこう遥かに沖見れば ばかに大きなお月様

  丸い顔して薄化粧 商売なれば是非もなや

  やくにも立たぬこのからだ

  抱いてねたとてなんとしょう

  うそで固めた章魚(タコ)の骨

  ねッから御役に立てばこそ
 
  そこはかとなく吐く息は

  われにもあらぬ蜃気楼

  労して功なく立ち消えて

  手も足も出ず白波の
 
  かなたにこそは失くせにける―
                               -「かばねやみ」辻潤

辻潤『かばねやみ』昭和9年(1934)5月よりの抜粋です。

昭和7年(1932)に天狗となって慈雲堂病院に入院した辻潤は、その後も何度か入退院を繰り返します。

これを書いた前年の1933年には、猿股ひとつで目黒区原町の大通りを「日本の農村を建設せよ」と大声で

わめいているところを目黒署に保護され、再び慈雲堂に入院です。

翌年の4月に退院した辻は、宮城県石巻の松巌寺住職松山巌王に招かれて松巌寺に。

「かばねやみ」はその頃書かれたものです。


気仙沼には辻マニアの菅野青顔がいました。

気仙沼図書館館長もやってた人で、戦火から蔵書を守ったという話を聞いたことがあります。

1950年8月24日。気仙沼観音寺境内に気仙沼自由芸術協会により、辻潤の「陀仙碑」が建立。

これも、青顔氏の尽力によるものと思われるが、陀仙碑には、辻の詩が刻まれている。

私が好きな奴なので、これで三度目だけど写しておきます。


   海岸山かんのん寺の朝ぼらけ空々くろろんと啼くは誰が子ぞ ―― 陀仙