『自分だけの世界』

 
  自分の生きてゆく標準を他に求めないことである 


辻潤は『自分だけの世界』で、こんな事を書いております。


ところで、唐突に「のり弁」です。

少し前に、竹原慎二のブログを覗いてみました。

「じゃあの」です。

本人が、面白がっているから、けっこう楽しいです。

そんな記事の中に「のり」というのがあった。

のり弁の<のり>を指でつまんだ写真に、こんな台詞が書いてある。

「この のり取ったら 何弁じゃ」

こちらです(中段の記事)→http://ameblo.jp/shinji-takehara/day-20070705.html



いつものように、話は変ります。

辻潤も、レッテルの多い人です。

ダダイスト辻潤、ニヒリスト辻潤伊藤野枝の前夫・辻潤・・・。

そんなわけで、ダダイスト辻潤の「ダダイスト」を、のり弁の<のり>のように、引引き剥がすと、何が

残るか?ということであります。

 辻潤について、たいがいの人は乞食になったと書いたが、そうではなく、辻潤の苦悩の一端は乞食

 になりえなかったことにもあるような気がする。

 乞食にも、坊主にもなりえなかった辻潤は、なりえなかったものを超絶するために、血みどろにな

 ったのではなかろうか。

 辻潤から、酒を引いても、

 おんなを引いても、

 尺八を引いても、
 
 やっぱり、辻潤が残る。

高木護さんが、『辻潤のへそ』で、こんな具合な事を書いてはりますけど、そんなんや思います。
 


話を戻して、『自分だけの世界』は、辻潤が翻訳した、マックス・シュティルナーの『唯一者とその所

有』の序文として書かれております。

シュティルナーの『唯一者とその所有』は、難しいというより、読みづらいという感じです。

私も、最初は???の連続で、何回か投げ出しております。

辻潤は、そんな南海ホークスな『唯一者とその所有』を…すんません、大阪のDNAはどうしてもギャグ

入ります。それにしても、ギャグが古い!…ごくごく当たり前の文章にして書いたりします。あんまりに

も、当たり前すぎて、何とも思わないくらいです。

その事に、気付いてからは、注意深く辻の書いたものを読むようになりました。そして、逆にそこから

『唯一者とその所有』を読めるようになったという所です。


辻潤は、先程も書きましたが、いろいろ言われます。けど、辻潤の言ってることをわかろうとするには、

シュティルナーの『唯一者とその所有』を読む方がいいだろうし、シュティルナーをわかろうとするに

は、辻潤の書いたもの全てを読めばいいというくらいに、不可分なものと思います。

辻潤自身が「つまり、僕はスチルネルを読んで初めて、自分の態度がきまったのだ」と書いております。


そんなんで・・・

 自分の生きてゆく標準を他に求めないことである。
 
 人は各自自分の物尺によって生きよというのである。

 それ以外にはなんの道徳も標準もないのである。

 一々聖人や賢人の格言や、お経の文句を引き合に出して来る必要がなくなるのである。

 約束や習慣はその時々に最も便宜であると思われるものを撰べばよいのである。

 世の中にこれでなければならないなどという客観的標準は一つだってありはしないのである。

 人は相互に出来るだけ融通をきかせよである。

・・・なんて事が書いてある『自分だけの世界』。長くもないので、読んでみてもらえればと思います。




そんだけ。

・・・「じゃあの」より早かったです。