『浮浪漫語』

 
  <僕は時々出来るなら、国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある>

こないだ、こんなコメントを書いて、ありゃ?となってしまった。

どう考えても、これは辻潤なのだ。



ところで、避暑変りに、爺&婆&ビョーキ男の三人とも入院したので、ゆっくり出来るかと思うてた。

そうは、イカのキ●タマだった。

 ・・・あっ、すんません。訂正します。

そうは、問屋が卸さなかったのだ。

 ・・・まぁ、どっちでもええか。

逆に、家と病院A、Bを行ったり来たりせんとあかんので、ややこしてしゃあない。



そんなんで、漬け物石にはならんけど、バーベル代わりか、凶器にはなるかも知らん、五月書房の「辻潤

選集」はA5版で900頁を持ち歩いて、そればっかり読んでいるのだ。

この所、辻潤の紹介記事が多くなってるのは、そんなことだからだ。



で、話を戻して「僕は時々出来るなら、国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある。」なんて事を

書いたものが収録されている『浮浪漫語』。

これは、辻潤が39歳の時の、初エッセイ集。

前に紹介した「自分だけの世界」や「自我経の読者へ」といったシュティルナー紹介も入ってたりする。


そうそう、辻は『唯一者とその所有』を『自我経』という書名にしてたりします。

話は、相変わらず変るけど、中村環一の『スチルナーと日本の思想風土』によると、監獄に『自我経』を

差入れしても、仏教書と思われて許可されたらしい。

シュティルナーも『唯一者とその所有』を出版する時、官憲は意味がわからずで、出版を許可したそうだ

から、やっぱり、どっかで二人は似ている気がする。


ところで、辻潤は『浮浪漫語』を始まりとして、『デスペラ』、『どうすればいいのか』、『絶望の

書』、『廃人の独語』、『子子(ぼうふら)以前』の6冊のエッセイ集を残している。

年齢や生活環境の違いなどによって、書き方や調子が違うのは当たり前として、どれを読んでも、同じ感

じを持つことがある。


それは、全くブレていないということだ。


「自分は人間としてのみ、色々な思想をもつが、同時に自分は無思想である」とか「真に自分を、いろい

ろな思想から脱却させるのは、無思想だけである。自分をあらゆる憑きものから解放するのは、思索では

なく、わたしの無思想である」とシュティルナーは書きますが、辻潤も、その通りに、辻潤を生きてきた

だけですから、ブレようがないのです。

辻は「自分は、十年前にスティルナーを読んだ。しかし、それは、そんなに偶然なことではなかった。も

し、自分が満足に、アカデミックな教育を受けていたら、スティルナーを発見することも出来ず、また、

読んでも、わからずに終わったかも知れない」と書いてます。

これはどういう事か?自分なりに思うたことを、また書いてみたいと思ってます。



そんなんで、『浮浪漫語』から、すこし引いてみます。


  僕は時々出来るなら、国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある。

  つまり、何処の国の人間にもなりたくないのだ。自分以外になん等のオーソリティなしに暮らし

  たいのだ。色々な責任から脱却したいのだ―― 随分、虫の好い考えかも知れない。まずそれが

  出来るのは乞食か浮浪人になるより仕方がないらしい。だが、聴くところによると、乞食にも色

  々な集団があって、繩張を争うようなことがあるそうだ。こうなると、無人島へでも一人で移住

  するより仕方がなくなるかも知れない。そして無人島で「無為無作」を続けることになると、そ

  の当然の結果として、餓死してしまうだろう。(『浮浪漫語』より)


・・・ホンマに餓死してたりするなぁ。引き続いて・・・


  生まれてくると、いつの間にか前から連続している世の中の色々な種々相や約束を押し付けられ

  て否でも応でもその中で生きることを余儀なくせしめられる。
  
  自分の意志や判断が、ハッキリ付かない中にいつの間にか、他人の意志を意志として、他人の生

  活を生活するようにさせられてしまっている。

  そして、親達は「誰のお蔭で大きくなったのだと思う」といって、恩をきせ、国家はさも、国家

  のお蔭でお前を教育してやった、知識を授けてやったというような顔をして恩にきせる。なる程

  自分が今迄生きてこられたのは、少なくとも自分のような蒲柳の質の生活力の弱いヤクザ人間が

  生きておられたのはまったく自分以外の人々のお蔭だということは一応わかりはするが、僕は別

  段、これを自分の意志からお願いした覚えは毛頭ないのである。
  
  つまりよってたかって自分を今のような自分に作りあげてくれたまでである。僕は寧ろそれをあ

  りがた迷惑だと思い、大きな御世話だと思ったところで、別段なんの差支えもなさそうである。

  まして「酔生夢死」を望むような心持にさせたのは全体、何人の仕業なのであろうか?
  
  考えてみるとなんとなくわけがわからなくなってしまうのである。(『浮浪漫語』より)






そんだけ。