『ふもれすく』(「ですぺら」収録)

 
 僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。

 それは、しかし世間に対するそれだけではなく、僕自身に対してのみのそれである。

 自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの

 虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。

 もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。

 世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。



ですぺら』は、『浮浪漫語』に続く辻潤、二冊目のエッセイ集です。大正13年(1924)、辻潤41歳。

この年は、年明けから四国で正月を迎えておりますから、まぁ、そんなんです。


で、『ですぺら』。冒頭の私のお気に入りの一文の入った「ふもれすく」や、「享楽の意義」などが入っ

ております。


「享楽の意義」は、別の機会にするとして「ふもれすく」。

「ふもれすく」は、辻潤伊藤野枝について書いた、唯一と思われる文章です。

「ふもれすく」については、何度か書きました。それくらいに、冒頭の文が大好きであります。


ところで、辻潤伊藤野枝大杉栄-神近市子-堀保子といった人たちを並べると、辻潤伊藤野枝の前

夫というポジションに置かれ、あんまりパッとしない役回りを演じる事が多いです。

こうした描き方に、以前から引っかかるものがありました。

それは、安モンのソクラテスでもあれへんし、嫁ハン運が悪いから、辻潤は哲学に走ったわけでもないと

いう事です。

哲学をやるから嫁ハンに逃げられるのか?

嫁ハンに逃げられたから哲学をやるのか?

いずれにしても、そんな話ではないのであります。

そないな事があったら、世界のあちゃこちゃで哲学者のオッサンが歩いてるような事になります。

ついでに、私も哲学者になっておるのです。(どさくさ)


で、この事をどう考えたらええのかと思い、瀬戸内寂聴が晴美だった頃の『美は乱調にあり』と『諧調は

偽りなり』を読み返しもしました。

が、すっきりしません。

ほんでも、ブログやってたおかげで知り合った【辻まことの世界に魅せられて】]をやってはるRinkoさん

の記事を読んだりするなかで、見えてきたこともあります。


そんなんで、今日、もう一度『ふもれすく』を読み返してたら、最後のこの文章に引っ掛かったのです。

 未練がなかったなどとエラそうなことはいわない。だが周囲の状態がもう少しどうにかなッていた

 ら、あの時僕らはお互いにみんなもッと気持ちをわるくせず、つまらぬ感情を乱費せずにすんだの

 でもあろう。(辻潤「ふもれすく」)

ん?周囲の状態って?

辻潤は、相当に当たり前の物言いをするので気がつかなかったのです。

例えば、辻潤は『自分だけの世界』の中で、こんなことを書いてます。

 彼(シュティルナー/低人注)の哲学によって人は各自の自我を意識することだけは出来る筈だ。少なくとも

 僕にはそれが出来たと信じている。そしてもし、かくの如き自覚をもって集合した人々が相互にその

 自覚した立場を理解し得たら、あるいは彼の予想した「所有人」の最も自由な結合が出来ないとも限

 らない。つまり相互の「わがまま」を認めて許し合う「結合」の状態である。そして結合することに
 
 よって相互に自分を利すると考える人々のみが集まればいいわけである。そして、もしその必要を認

 めなければ無理にその仲間に這入りこむ要はないのである。それを統治するなんらの権力もない混然

 たる個人の結合なのである。(辻潤『自分だけの世界』)


辻潤は、伊藤野枝大杉栄も、相手がどうだったかはわからんけど、唯一者として理解してたのではない

かと思ったわけです。

そうだとしたら、辻潤はやっぱり筋金入りです。





そんだけ。



●【辻まことの世界に魅せられて】→http://www.ricecurry.jp/