『享楽の意義』(「ですぺら」収録)

 
今回も、辻潤二冊目のエッセイ集『ですぺら』からのものです。

そうそう、『ですぺら』は、desperateのことやと思います。

で、紹介する『享楽の意義』。私の能書きなしの方が絶対にええので、そのまま一部を掲載します。

もし、?な所があるようでしたら、泉ピン子えなりかずき、それでも駄目なら橋田壽賀子にでも直接問

い合わせ下さい。


・・・それは<幸楽>!ゞ(ーー*)おい!


失礼しました。^^;


では、辻潤で『享楽の意義』です。

 人間はこの世の中に生きている限りは、御相互に出来るだけ享楽をしなければならない。

 享楽のないところには決して幸福はあり得ない。幸福とはつまり人間が相互におのが好むがまま、

 欲するがままにこの生を享楽することが出来る状態に名付けられ言葉である。
 
 人間が自分の欲望を充分に満たすことが出来ず、この世を強く深く享楽することが出来ない時に、

 人間は 不幸を感じるのである。
 
 ところが、今の世の中はどうか?享楽はさておき、大多数の人達は単に生きていることさえ出来な

 いでいる有様である。享楽などということはちょっと考えるとまるで、この世の中の言葉ではない

 ようにさえ考えられる。
 
 しかし僕等はたとえ如何に貧乏であろうとも、如何に苛酷な労役を余儀なくされていようとも、こ

 の世を熱愛して生きている限り、少なくとも如何なる状態におかれていようとも、一日としてこの

 世を享楽しようとすることを忘れるものではない。

 あらゆる機会を捉えて、自分の欲望に忠実に、自分の力の範囲において、自分とこの世とを享楽し

 ようとしているのである。
 
 享楽ということを否定することは、この世を否定することである。

 従来、享楽ということは少なくともその言葉は士君子の公然口にすべきものではないように考えら

 れてきた。そして僕等の少年期と青年期とを通じて与えられ、教えられてきた教育において未だか

 つて享楽を人生の最大義務であるというように説いて聴かせられたことは一度もない。

 否、むしろその言葉は侮蔑と嫌悪とをもッて排斥されてさえきたのである。
 
 それは何故か?この国に深く植え付けられた習慣と道徳とが、それを排斥侮蔑してきたのである。

 そして「享楽」の意義が主として人間の官能、肉体の上に限られているかのように考えられたため

 でもある。この国の少なくとも仏教と儒教-わけても儒教の固陋な偏見と馬鹿らしき道徳とに養わ

 れてきた人々は人間の肉体を恐ろしく蔑視してきた。

 はなはだしきにいたっては、物を他人の前で食べることすら恥じる、というような心持ちを抱かせ

 られるいたった。そして粗食を誇るにさえいたった。人間が生きる上に、最も必要で根本的な食物

 をすら享楽することの出来ない時代は、今なおこの国のある部分と階級とには依然として残存して

 いるのである。

 これは果たして未開であるか、野蛮なのか、文明なのか、自分などは殆ど了解に苦しむのである。

 自分の少年の時分の食卓における道徳はなるべくおとなしく早く飯を食うことである。そして食事

 中に口をきくことさえ禁じられた。父母兄弟姉妹が膳を囲んで睨み合いをしながら、無言で出来る

 だけ早く飯を食うことが立派なことであるという風に教えられたものだ。淡白も時にこそよかれと

 いいたくなる。なんのために僕等はこの地上に生きているのだといいたくなる。それ程イジケて、

 ビクビクしてこの世に生きている位ならむしろ死んだ方がいいのである。

 たしかアルツィバーシェフだと思った、人間が他人の自殺するのを止めることは僧越だという意味

 のことをいった。つまり彼の考えではこの世に生きている人間は、少なくとも何等かの意味でこの

 世を享楽し得ることの出来る人々である、だからそれが出来ない人間が自殺するのはあたり前で、

 それを他人が止めだてする必要はないというのである。

 ちょっと聞くと冷酷だが、僕なぞには如何にも真理の如くきこえる言葉である。

 人生にもし目的が あるとすれば、それはこの生を各自が出来るだけ享楽せよということ以外には

 なにものもない。



こんなんでした。

なんや、この終わり方、泉アツノみたいやなぁ。

って、誰も知らんか。