いまのところ
フンギャ~とこの世に放り出される前は、たぶん目を閉じているのだ。
覚えてはいないけど。
というか、この世に出てからの記憶なんてアヤフヤの塊みたいな気もする。
死ぬ時も目を閉じる。
この頃は、人と会ったり、何かの仕事をしたり、本を読んだりということもない。
だからといって、それが不満でもない。
私は考える力が弱い。
だから、本を読んだり、人と話したりするのは、自分の考えを動かす梃子みたいなものなんだけど、それ
が出来なくても、今はそれでいいと思うてる。
ところで、私は生まれついての「子分肌」の男だ。
何かをすると、必ず自分でなくて、向こうの理屈で動いてしまう。
だから、どうかすると相も変わらず先頭で旗振ってたりする。
治らん。
食うに困らず、人間関係に煩わされず、気持ちの通じ合った人達に囲まれて、それなりの社会的評価も得
ているというのが、普通にはいい状態なんだろうと思う。
でも、私は弱いから、そういう状態に置かれると、間違いなく、躊躇うこともなく、とっとと自分を捨て
てしまう。
断言できる。
だから、今のように高齢者低所得一家の見届け人として、ジタバタしている方が、絶対にいいのだと思う
てる。
ようするにビンボーがしっくりくるのだ。
生まれてから、無理矢理に着せられてきた服を、ようやく脱ぎ捨て始めたのに、ここで止めてたまるか
い!ということでもある。
目を閉じる。
生まれる前と、死んだ後と同じ状態に自分を置くことが出来る気がする。
過去を未来に置いてみたり、その反対をやってみたりする。
生まれてからのいい加減な記憶や知識とは無縁な何かと繋がっている気がする。
「人生を享楽せよ!」と辻潤は言う。
今は、ひとりで目を閉じることが、私の享楽の方法のような気がする。
わけわからん。
そんだけ。