新聞でフィギアスケートの記事を読んでて発作的に思い出した。

オカンは「ィ」の発音が出来なかった人だ。

だから、フィギアはフイギアとフギアの中間のようなワケワカラン発音になった。


ずいぶんと昔に、オカンが唐突に映画を観に行こうと言いだした。

私がまだ15かそこいらの時のこと。

オカンは私が物心ついた時からそうだったように、その時も酒浸りだった。

酩酊しているオカンを家まで連れて帰って、「ここ出よ」と決めた。

その時の映画は『伯爵夫人』。



70も過ぎてオカンの体から酒が抜けた頃、また親子に戻った。

オカンは何でか映画のことを覚えてた。

ソフィア・ローレンをソフイアかソフアかわからん言い方で愉しそうに思い出を話した。


この頃は、ささいなきっかけで自分が失ったものを感じたりすることがよくある。

オカンは去年死んだ。

毎週日曜には、爺さんを車椅子で押しながら、仏壇に供える花を買いに行く。

それが大切なものと思うのか、爺さんは聖火ランナーのように花を片手にかざすように持って、すれ違う

人を振り返らせる。

近在の人は、爺さんの状態を見て「大変やねぇ」と言い、それから「お母さんは、早く亡くなって良かっ

たかも知らんねぇ」と言う。


それはどうだかわからん。

ただ、私の親がどんな親であっても、その事に関係なく、私は生きるにジタバタしてるだろうし、親も私

がどんな息子であっても、同じくジタバタしただろうと思うだけだ。

車椅子に乗ってる方も、押してる方もジタバタしているのだ。

生きてる間に起こったことは、生きてる間に解決することもないのだ。

だから良くも悪くも最後までジタバタするのだ。

そんだけのことだくらいにしか思っていない。


   いまは死者がとむらうときだ

   わるびれず死者におれたちが

   とむらわれるときだ


オカンが死んでから、石原吉郎の『禮節』の一節が頭から離れん。



そんだけ。