『おやじについて』から長い引用
よく人々は、一度絶望したところから本当の希望が生まれるなどと、判ったような判らぬことをいう が、自分の意志によって、自分を動かすことのできない自分が、自分の運命だということの認識(絶 望)からは、どんな希望も生まれることはないとおもう。 ただ、現実的な自分の場所に忠実であることより外には、努力のしようがないことになる。 これだけが、自分にとっても他に対しても誠実だということよりほかはない。 それが、できるかぎりの自由に近い生活方法だというより仕方がない。 おやじは、こういう自分の道を生活し、そして死んだ。 すこしばかりパンクチュアルでありすぎた結果、社会的なゴーモンをうけたが、わがままを貫いた。 精神の自由を徹底させた人間としてめずらしかった-とおもう、殊にこの日本で…。 多くの画家によって描かれ、多くの人々の心を打つサンセバスチャンの像に象徴されている「不屈な 精神」。時代と狂信のために圧迫されながら思考上の真実を曲げなかった中世の科学者の「火刑上の 誠実」これら静かな確信に対する価値を、おやじの「絶望」に近似させることは、奇異にみえても不 当ではないだろうと、私は考える。なぜならば、判断の結果的な価値は別として自分の能力の可能な かぎりを探求し、それに生命をあたえた点で…ゴーモンによって自分の真実を曲げなかった点で、ヒ ューマニティ以上のものを示したから…これを守った点で個性的思想家とよぶことのできる日本人だ った。 たまたま異常な変動と興奮によって「死」が「陶酔」即ち錯倒した「生」に見えるとき以外、「死」 はだれにとっても強迫者に思われる。「死」の刻印から、その苦痛から逃れるためにする精神の降伏 を人々は人間的なものとして肯定しようとする。が、そこには実は現状維持以外のなにものもない。 それは人間の処世術であって思想の墓場だ。胃袋に屈服した頭はすでに奴隷の思想家だ。 現状の修正は、いつもこれらヒューマニティをのり越えたところに現実をみた人によって方向を示さ れたといえる。 詩人萩原朔太郎は、おやじをかって「現代のおかしげなキリスト」とよんだ。そのころ私はそれを奇 妙におもっていたが、人生を作品化した点で共通性のあることは、今否定できないようにおもう。 私は、おやじは芸術家になり得なかった人間だといったが、-たしかに芸術家ではなかったが-おや じ自身一個の芸術作品であったと、私はちかごろ考える。 なぜなら、おやじ自身は自由でなかったとしても、おやじの行為と表現は、私の、そして多くの人々 の精神の願望の犠牲のように思われるから…。 『おやじについて』-辻まこと(1849.5)
この本で辻まことは、こうも書いている。
内側を眺める眼をもっていたおやじにとって、デルフォイ寺院の碑文は、人生の第一頁に書かれ ていたようだ。」
どういう文脈で書かれたのかは知らないが、オスカー・ワイルド。
それをやってみせた人・・・辻潤。
辻潤を読むと、自分が開かれたような感じになる。
そして
そんだけ。