自 我 経

 
 神や人類が何物にも患わされずに、ひたすら自分のために生きているとすれば、僕らも僕らのこと

 以外には、何物にも患わされずに生きたらどうであろう。

 もし神様や人類がすべての内容を持っているとすれば、それはそれで承認しよう。要するに僕は何

 も持っていないことになるのだ。

 だが僕は何も持っていないが故に、これからすべてを獲得する。

 無から、僕自身は創造者として一切のものをつくりあげる。

 僕の事でないものは全部去れ!

 僕の事は善でもなければ悪でもない。神の事は神の事。人間の事は人間の事である。

 僕の関心事は、神のことでもなければ人間の事でもない。

 唯一無二のわが事でしかないのだ。僕にとって僕以上のものは何もない!
                      
                         -M・シュティルナー『唯一者とその所有』より
 
 当の人間は、憧れの的である未来にあるのではなく、現に今ここに生存しているのである。

 たとえ僕が如何様にあり、何者であろうとも、悦びに溢れていようと、悲しみに閉ざされていよ

 うと、また子供であろうと老人であろうと、安心していようと疑惑に陥っていようと、眠ってい

 ようと醒めていようと、僕はそれであり、本当の人間である。(同上)


辻潤は、M・シュティルナーの『唯一者とその所有』を訳し、その書名を『自我経』とした。

シュティルナーと老荘は似ていると言われる。

私は学問として辻やシュティルナーを読んでるわけではないので、似てるなぁと思うに過ぎんけど。


ところで、「転向」で名を残している鍋山貞親が獄中の同志に『自我経』を差し入れ、仏教書だろうとい

う事で許可が出たという話が残っている。

鍋山が『自我経』を差し入れした理由はわからん。

鍋山は、人間不信、ソビエトの国家エゴ、自由主義の再認識をもって、共産主義を捨てる理由とした。

鍋山・佐野の「転向宣言」が悲しいのは、「思想」を信じたが、それは完全な「思想」ではなかったと、

再び「思想」で語っているから。


若い時、熱中して無茶やった。それはそれで生き甲斐を感じさせてくれたんやから感謝はしてる。

けど、もうここいらでやめる。

そのかわりに、これからは自分の中に二度と思想を住まわすことはない。

私は今から自分に帰る。


私はそんな具合にサヨナラしたように思う。


そんだけ。