自 我 経
神や人類が何物にも患わされずに、ひたすら自分のために生きているとすれば、僕らも僕らのこと 以外には、何物にも患わされずに生きたらどうであろう。 もし神様や人類がすべての内容を持っているとすれば、それはそれで承認しよう。要するに僕は何 も持っていないことになるのだ。 だが僕は何も持っていないが故に、これからすべてを獲得する。 無から、僕自身は創造者として一切のものをつくりあげる。 僕の事でないものは全部去れ! 僕の事は善でもなければ悪でもない。神の事は神の事。人間の事は人間の事である。 僕の関心事は、神のことでもなければ人間の事でもない。 唯一無二のわが事でしかないのだ。僕にとって僕以上のものは何もない! -M・シュティルナー『唯一者とその所有』より
当の人間は、憧れの的である未来にあるのではなく、現に今ここに生存しているのである。 たとえ僕が如何様にあり、何者であろうとも、悦びに溢れていようと、悲しみに閉ざされていよ うと、また子供であろうと老人であろうと、安心していようと疑惑に陥っていようと、眠ってい ようと醒めていようと、僕はそれであり、本当の人間である。(同上)
辻潤は、M・シュティルナーの『唯一者とその所有』を訳し、その書名を『自我経』とした。
シュティルナーと老荘は似ていると言われる。
私は学問として辻やシュティルナーを読んでるわけではないので、似てるなぁと思うに過ぎんけど。
ところで、「転向」で名を残している鍋山貞親が獄中の同志に『自我経』を差し入れ、仏教書だろうとい
う事で許可が出たという話が残っている。
鍋山が『自我経』を差し入れした理由はわからん。
鍋山・佐野の「転向宣言」が悲しいのは、「思想」を信じたが、それは完全な「思想」ではなかったと、
再び「思想」で語っているから。
若い時、熱中して無茶やった。それはそれで生き甲斐を感じさせてくれたんやから感謝はしてる。
けど、もうここいらでやめる。
そのかわりに、これからは自分の中に二度と思想を住まわすことはない。
私は今から自分に帰る。
私はそんな具合にサヨナラしたように思う。
そんだけ。