おばさん、俺は死ぬまで志望も目的もないんだよ・・・
用事で梅田に出る。
梅田というか、繁華街に用事以外の何の用もなくなった。
ブラブラをしたいところはあるけど、梅田や難波や天王寺ではない。
それはええとして、定番のカッパ横丁の古本屋を覗いてとっとと帰る。
新刊書店で、そんな気持ちにはいっこもならんけど、古本屋で三回くらい行って、その度に同じ所に置い
てあると気持ちが動く。
「そうか、そうか。おっちゃんに買うてもらいかたかったんやなぁ。よっしゃ、よっしゃ」
わけのわからん妄想を起こしてしまう。
それで行くと、あの本たちもそういうことになるんやろか?
ぜ~んぶで57000円になるなぁ。
困った、困った、こまどり姉妹や。
「すまんのぉ、おっちゃん甲斐性なしで」と、次行った時に謝っとこ。
この頃、ネット検索をしていると「大泉黒石」がよくヒットする理由がわかった。
この『のたれ死にでもよいではないか』に取り上げられていた。
紀伊国屋でパラパラとめくってみたけど、買えへんかった。
島尾敏雄が黒石の追っかけをしているのは知ってた。
この本にもそれは取り上げられてるけど、なんで島尾敏雄が黒石の追っかけをやってたかについては、黒
石の虚無的姿勢への共感があったのではと、わかったようなわからんような事しか書いてなかった。
そんなことはともかく、のたれ死にでいいわけないやん!
世の中が息苦しく暑苦しくなればなるほど、黒石に限らず、そんな具合な人を、まるで金魚鉢の中の金魚
のように紹介して、こんなんもあるよ!ちょっとスッキリした!ほな次行ってみよう!みたいなのが出て
くる気がする。
◎↑この人は黒石の息子さんです。黒石の写真はプロフィール画像に貼っておきます。
以下の略歴は、黒石全集の「大泉黒石掌伝」によるものです。
父はロシアの農家の家系の出自、好学の人でペテルブルグ大学出の法学博士。ロシア皇族の侍従と して長崎にきたとき、日本側の接待役をした母恵子(よしこ)と知り、恵子は周囲の反対を押し切 って結婚。恵子は当時の進んだ女性で、ロシア語を解し、ロシア文学を研究していた女性であった が、黒石を産んで他界したとき、僅かに十六歳であった。 祖母にひきとられた黒石は、小学校三年まで長崎で。ついで漠口の領事をしていた父をたよってゆ くが、父とも間もなく死別。父方の叔母につれられモスクワにゆき小学校に入る。 またパリのリセに数年在学したが停学。スイス、イタリアを経て長崎に戻り、長崎鎮西学院中学 を卒業。ふたたびペテログラードの学校に在学。 ロシア革命の巷と化すに及んで帰国し、京都三高に入学。幼馴染の女性福原美代と結婚。 三校を退学して東京にでてきたのが1917(大正六)年。一高に在籍したが間もなく退学。 石川島造船所書記から屠殺場番頭にいたる雑業のかたわら、小説家を志す。文壇的には1919年、 『中央公論』に「俺の自叙伝」が連載されることで、一躍脚光を浴びることになる。 以上の範囲内でも、なお事実の裏付けのとれぬところや、年代の矛盾も残る。ともかく大正八年に 大編集長滝田樗陰(ちょいん)に認められ、突如中央文壇に彗星のごとく躍りでた異貌の文学者、 自称<国際的の居候>の前半生の軌跡としては十分であろう。 その後、ベストセラーになった『老子』、その続編『老子とその子』、傑作『人間廃業』等を主軸 に多量の作品を世に送った黒石ではあったが、中央文壇からは1926(大正十五)年頃を境に、黒石 の光芒は薄れていく。 陰湿な文壇事情、黒石自身の複雑な韜晦癖、混血児への差別、そしてなによりも、日中戦争から太 平洋戦争へと雪崩れこんだ超国家主義の風土のなかで黒石の文学思想は世の容れるところとはなら なかった。 黒石が世を去ったのは1956(昭和32)年、六十五歳であった。 -由良君美による大泉黒石の略歴(大泉黒石全集より)
書庫<大泉黒石>でもう少し紹介してますので、よかったら。
はい。