とむらわれる

 
   い ま は 死 者 が と む ら う と き だ

   わ る び れ ず 死 者 に お れ た ち が

   と む ら わ れ る と き だ

            -石原吉郎『禮節』より


オカンが逝った時から、石原吉郎の詩の一節が頭にへばりついている。

半年後にオトンも逝ってもうたけど、おんなじようにこの一節が浮かんできた。


爺&婆の新盆も世間の作法通りに終わった。

それはそれだけのことやけど。


人はみんな知らないところでニンゲンなんだろうから、知らないことはわからん。

ただ間違いなくオトンとオカンは私の世界の一部であった。

だから、それが消えたから私の世界は変わった。

どんな具合に変わったかわからん。

けど、上の一節が一年以上へばりついてるということは、そういう具合に変わったんやろ思う。


谷川俊太郎に、死んでいく人間が悲しそうなのは、なお生き残る人間を悲しんでのことやから、生きてる

間はせいぜい笑うて生きるんが、死んだ人へのはなむけ…のような詩があった。


見届け人をやるとしたから、爺&婆の最後を見届けた。

間際の数時間と後の数時間を一緒に過ごした。

会話の出来る状態ではなかったが、たしかに悲しそうな顔ではあった。

もし谷川の詩のように、生き残る私たちを悲しんでのことなら、死ぬほど詫びんとあかんやろ。


すんませんでした。


相変わらず酒でも飲まんと心が動かん毎日が続いてる。

けど、それはそれとしてこれからもエエ加減にテキトーにやっていくだけのこと。

唐突に人間変わるほどアホでもない。


一日生きたら、一日分の命が消える。


例えば、一億円を持って使わずに死んだとしたら、持ってるも持ってないもおんなじこと。

ないならないで行けるとこまで行くだけのこと。


生きてる意味なんぞサッパリわからん。


あえて言うなら、癖みたいなもんかも知らん。

生き癖。

それで文句のある人がおるなら、死んだらこの骨返すから文句を言うなと言いたい。


話がわけわからん状態になってきたからとめよう。


とりあえず、自分の立ち位置がはっきりしたのは間違いなさそうだ。



そんだけ。