昭和5年8月19日…嫁ハン譲渡声明文

 拝啓 炎暑の候、尊堂益々御清栄奉慶賀候。

 陳者我等三人この度合議をもって千代は潤一郎と離別し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母

 と同居可致素より双方交際の儀は従前通りにつき御諒承の上一層の御厚誼を賜度いづれ相当仲人を

 立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候

                            敬具  谷崎潤一郎/千代/佐藤春夫
 

図書館に本を返しに行ったついでに確認してきた。

昭和5年(1930)の今日、この挨拶状が発送された。


当時も大騒ぎになったようだけど、今ならオリンピックは飛んでるかも知らん。

人の色恋は尊敬もせんけど、軽蔑もせんという人間なので、話のもつれにそんなに興味はない。

大変でしたなぁくらいのもん。

もちろん自分の場合はそうはいかんけど。


谷崎潤一郎佐藤春夫辻潤との交流は深い。

谷崎は辻の巴里行きや辻がビンボーで詰まった時の後援会を引き受けていたし、浅草を舞台にした『鮫

人』という小説では、辻をモデルにしたりもしている。

鮫人は男版の人魚みたいなもので、中国の伝説。


一方で佐藤春夫も辻のビンボーを助けてもいるし、辻潤太宰治をこんな具合に比較する。

 彼と太宰との差は太宰が朴訥な田舎者で自己を語るにヤボな小説体を以ってした所を、辻は翻訳や

 随想雑記でした点だけであろう。

 辻の代表作ともみるべき自伝的随筆は題して『ですぺら』と云う。敢て絶望の書と呼ばず同じ意味

 をこの造語で現したのが辻の気取りでもあり文藻でも私情でもある。その語感の示す彼は・・・楽

 しく絶望したのである。


写真三枚は晩年の辻潤です。
イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

だいたいこんな格好で知り合いのところに現われては、得意の尺八で門付けをしてたりしてました。

佐藤春夫は、女中に某かの金を渡して会う事はなく、辻も、その金を懐に「おっ」の一言で立ち去ったと

いいます。


谷崎潤一郎は、表まで出てきて「うるさいよ」と言ったとあります。


どっちがどうかは、好き嫌いの問題かと思うのやけど、私は谷崎のような対応をする思う。


はい。