ドテ焼きと上善
天五にドテ焼きの美味い店がある。
ここが好きなのは、まず箸が割り箸ではないこと。
それから、オヤジの「ドテいっちょう~」の声が美味いこと。
オヤジは野球には、いっこも興味がないので、イチローのファインプレーをテレビで映してた時のコメン
トも美味かった。
「なんや、エテ公みたいでんなぁ」
そんな店のドテ焼きには新潟の酒、「上善」が何でか知らんけど合う。
ただ上善は水の如しやから、飲み過ぎる事が多い。
だから、明朗会計の店なのに、いつも私が不明朗になってしまう。
そりゃ、あんたが悪いんや…と突っ込まないでネ。
上善は水の如(ごと)し、水は善く万物を利して而(しか)も争わず。
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。
居には地を善(よ)しとし、心には淵(えん)なるを善しとし、与(まじわり)には仁を善しとし
言には信を善しとし、正(政)には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。
夫(そ)れ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)め無し。
-老子・第八章
衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。
居には地を善(よ)しとし、心には淵(えん)なるを善しとし、与(まじわり)には仁を善しとし
言には信を善しとし、正(政)には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。
夫(そ)れ唯(ただ)争わず、故に尤(とが)め無し。
-老子・第八章
最上の善は、たとえば水のようなものである。 水は万物に偉大な恵みを与えるが、万物と争うことはせず、 人々の嫌がる低湿の地を住処とする。 だから無為自然の道の在り方に近いのだ。
福永光司はこんな具合に訳してはる。(朝日選書版)
ニンゲンはフンギャ~と生まれたときから人間に仕込まれていくのだ。
法律やら教育やらいろんなもので。
犬や猫の心根はもちろんワカランけど、あいつらは決して「犬らしく生きよう」、「猫として矜持を持っ
て生きていこう」なんて思うたことはない思う。
だいたいに、自分が何であるかを考えたくなるほど落ちぶれてもおらん気がする。
ニンゲンだけが「人間らしく」とか「人間として」なんてワケワカランことをほざくのだ。
そやから、牛や馬ならとっくに倒れてるようなロードーでもニンゲンだけは倒れへんのだ。
「人間として」なんちゅうのは、そんなことでしかないような気がする。
「思うままに生きる」と辻潤はよく書く。
それは、こんな具合なことやろ思う。
タイトルと記事の終わりがカンケーなくなるのはいつものこと言うことで。
はい。