象の墓場

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近所の空き地。

少し前まで一本の桜の木があって、春には不法投棄のゴミの中で花を咲かせたりもした。

それから、桜の木の下でオッチャンが回収した空き缶や新聞を仕分けしたりもしてた。

こないだ桜の木も切られて、死体を隠すように青のシートで隠されてたりする。

人に「前、ここ何があったか覚えてはります?」ときいても、覚えてる人も少ない。

そのうちに、金さえあればという立派な物件に変身して行くんやろ思う。


 今日、歴史と社会において生きる人間や人間集団は、時には意識的に、時には無意識的に、あまり

 にも無慈悲に、また、あまりにも無造作に、時々刻々に「死者」を造り出しつつ、己れ自身は「死

 者」と隔絶した「生者」として、また、「生者」たちだけの集団として、存在し営為しつつあるよ

 うにみえる。

 このような人間や人間集団にとっては、「死者」とは過ぎ去ったものであり、存在を喪失したもの

 であり、権利と意味を放棄したものであり、要するに空無に他ならないものであるだろう。

 したがって、このような人間や人間集団にとっては、「死者」と共に存在する「生者」、「死者」

 と共に生きる「生者」、「死者」と共に闘う「生者」のごとき理念は、自己矛盾の観念に過ぎず、

 「死者」と共存し、共生し、共闘する「生者」 のごときイメージは、現実の歴史と社会において

 は実在したことも、実在していることも、実在するだろうこともない虚像にすぎないものであるだ

 ろう。

 つまり、このような人間や人間集団にとっては、歴史と社会は、「生者」によって独占せられ、そ

 れのみによって形成せられ、そのためにのみ営為せられている時間的・空間的構造に他ならないだ

 ろう。

 しかし、成心を去り、思いを柔軟にして、歴史と社会との現実を凝視すると、歴史と社会は、いず

 れの時代においても、また、いずれの地域においても、つねに「死者」と「生者」との共存・共生

 ・共闘 の時間的・空間的構造として存在したし、存在しているし、そしておそらくは今後も存在

 するだろうことを、あるいは発見し、あるいは洞察しうるのではあるまいか。

 それにもかかわらず、今日、多くの人間と多くの人間集団にとって、歴史と社会が「生者」のみが

 独占し、それのみが形成し、それのためにのみ営為せられる構造を意味しているのは、たまたま今

 日の、まさに多くの人間と人間集団の転落している「生者エゴイズム」とかれらを呪縛している

 「生者コンプレックス」に由るのではあるまいか。

 今日形成せられつつある歴史、今日営為せられつつある社会は、この狭量で排他的な「生者エゴイ

 ズム」と、怯懦で自閉的な「生者コンプレックス」のために、自己の連続性と一体性を喪失してゆ

 き、自己同一性を自ら否定していくことにおいて、自己分裂と自己破壊の道を歩みつつあるように

 さえみえる。

 そうだとすれば、「死者」と「生者」との共存・共生・共闘の理念は、現実をたんに認識するため

 の方法概念でありうるだけではなく、現実を救済するための実践原理としても妥当するのではある

 まいか。

                       -上原專祿著作集(16)『生者・死者』評論社より

上原專祿の『死者・生者』は、いきなり、こんな具合にはじまる。


象の墓場。

象は自分の死期を悟ると、誰も知らない「象の墓場」に行って、独りで死ぬは本当なんやろか?



そんだけ。