大正12年9月16日

 
  僕角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ、黒襟の衣物を着し、三味線をひき、怪し気なる

  唄をうたったが、一躍して婦人解放運動者となり、アナーキストとなって一代の風雲児と稀有な

  る天災の最中、悲劇的の最後を遂げたるはまことに悲惨である。惜しむべきである。更に恐ろし

  いことである。お話にならぬ出来事である。開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである。

                                    -辻潤『ふもれすく』

  <1976年8月26日、朝日新聞によって報じられた死因鑑定書の結論部分>

  男女二屍ノ胸部ノ外傷ハ甚ダ高度ナルニ拘ラズ皮膚ニハ之ニ相当セル損傷無キヲ以テ衣服ノ上ヨ

  リ加害ヲシ致死後裸体ト為シ畳表ニテ梱包ノ上井戸ニ投ゼシモノト推定ス。


1923年(大正12年)の今日。

関東大震災後のどさくさのさなかで、甘粕正彦率いる憲兵隊に、大杉栄伊藤野枝・甥の橘宗一は拉致さ

れ、暴行され、虐殺され、井戸に捨てられた。


享年、大杉栄38歳、伊藤野枝28歳、橘宗一7歳。


その死因鑑定書が出てきたのは、死んで50年を過ぎた1976年。


「開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである」・・・ほんまに。


はい。