発見された日

 
「それがです、例の一件コノカタというもの、一通りや二通りのショゲ方ではなく…日に二度食べる御飯

ですら、辛うじてノドへ通るか通らないかという有様で、型の如くエンセイヒカン…その意気地のなさ加

減と来たら、実にもってお話のホカです」(辻潤「のんしゃらす」)


伊藤野枝が自分から離れ大杉栄と一緒になってからの辻潤は、さいごまでこんな具合だったように思う。

「親のない子と浜辺の千鳥、日さえ暮れればチヨチヨと」。

この頃を知る橋爪健という人によると、目をつむった顔を少し上向きにして、この歌(追分らしい)を歌

辻潤の姿と声には無限のさびしさがあったと書いている。


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この写真は、昭和18年に立ち寄った中西悟堂宅でのもの。

ブラブラ中の辻潤の風呂敷包みの中には、伊藤野枝の手紙や写真が入ってたと、中西悟堂が平塚らいてふ

に言っそうだ。らいてふのお孫さんが書いていた。


伊藤野枝のことを、辻潤大杉栄と男によって変わって行ったという人もおるけど、それは違うと思う。

けど、そういう言い方をするなら、辻潤伊藤野枝と出会うことがなかったら、アノ「辻潤」は生まれる

こともなかったやろ思う。

シュティルナーの「唯一者とその所有」の訳を本格的にはじめたのは野枝さんが去って間もなくのこと。

それはやっぱり、破局の苦悩から抜け出すためにも必要なことやったんやろと思う。


辻の潤さんは、好きやった野枝さんが去ってからは、一所に落ち着くこともない放浪のような生活を、飢

えて虱にまみれて死ぬまで続けた。

辻潤の放浪と「虚無」は関係ない気がする。

たぶん、一所に居続けることが苦しくて出来なかったんやろうと思う。

それから、辻潤は「虚無」に憧れ続けた人のように思う。

「虚無」そのものではないように思うたりもする。


昭和19年11月の今日、24日。

辻の潤さんは東京は上落合の静怡寮で虱にまみれて死んでいるのを発見された。


「死ぬときはね。死ぬときはうなきを食って死にてえ」と、最後の方で交流のあった金子光晴に言ったら

しい。

鰻というわけにはいかんけど、作ったおでんの大根と焼酎の湯割りを供えてあげた。


そんだけ。