枕 詞

 
竹久野生さんのエッセイが出たんで注文した。

気になったんが、発行元のHPにあった紹介文。

こんなん。

 著者・竹久野生氏は、竹久夢二の次男・不二彦氏の養女として育ち、その出自は、エッセイスト、詩人

 でもあった辻まことを実父に、武林イボンヌを母に誕生。

 従って、彼女の祖父はダダイスト辻潤、祖母は婦人解放運動家・伊藤野枝であり、文章の中にご先祖

 のDNAがたっぷり感じられる構成になっております。

両親が誰で、祖父母が誰となるのはやむを得ん事かも知らん。

そこまで書くなら、ついでに母方の祖父が武林無想庵で、祖母が宮田(中平)文子とまで書いといたらえ

えのに。


ほんでもいっちゃん引っ掛かったんが、ダダイスト辻潤という言い方。

辻潤って誰やねん?に対して、いちばん多いのが、このダダイスト辻潤という言い方。

辻潤は、『唯一者とその所有』や『天才論』を翻訳した。『いぬかわ』とか『さんちゃん』といった小説

も書いてる。

けど辻潤ってなんやねん?となると、小説家でもないし、詩人でもないしとなって、そうかと言うて、伊

藤野枝の最初の旦那では潰しがきかんし、もうヤヤコシイから、本人もそう言うてるからダダイストにし

とけのような感じがせんでもない。

そんなことで、ダダイスト辻潤という言い方は好かん。

萩原朔太郎が『辻潤と低人教』の中でこんなこと書いてる。

 辻潤が進んだ道は、ペンで書く文字の表現ではなく、生活そのもの、人格そのものを表現する文学だ

 った、つまり、彼の場合で言えば、「辻」という人そのものが、その表現された「作品」なのであっ
 
 た。-『辻潤と低人教』萩原朔太郎


御用学者という言い方がまた流行ってるようやけど、自分の暮らしを理由に現実と妥協する知識人が多い

のは今に限ったことでもない。

戦争中、生きてるのに死亡と文壇名簿に書かれた辻潤は、そうした現実から背を向けて生きて、とうとう

餓死したけど、辻潤辻潤を生きたのであって、ダダイストであるからそうであったわけでもない。

辻まことを別にすると、高木護さんは辻潤ダダイストとは書かんで、「個」に生きた人と書いてはる。

一個の個とも。

辻潤シュティルナーの『唯一者とその所有』を訳したけど、それ以上に『唯一者とその所有』の通りに

生きようとした人。

そやから枕詞はいらんねん。


 昭和19年の春に彼は貧窮のうちに終戦を待たずに死んだ。世間並みにいえばみじめな晩年だっ

 た。しかしほんとうにそうだろうか?私の知るかぎり、ひとりの人間として決して負けなかった

 人間だった。彼の死は、一つの魂の勝利だったと感じている。

 戦争が進展するにつれて、文化の使徒のような顔をしていた有象無象が、どんな醜悪な卑しい虫

 ケラだったかは自ずから明白になっていった。戦争が終わった後の現在でも彼らが、そのみじめ

 さをお互いに「人間的な弱さ」だなぞとなぐさめあっているのを見かけるが、あの暗い空の下で、

 心の内でその見せ掛けだけの名論、卓説の類いにわずかにすがっていた青、少年の期待をふみにじ

 って、人間不信の根性を育てたのは彼等だったのだ。

 私は、それまでの友人と先生をすべて失った。すべてである。

 彼らの舌は今も昔も風にそよぐ木の葉のざわめきにすぎない。

 だが辻潤だけはその風の中で石コロのように自分の重量を守った。私の知っているただ一人の信じ

 られる生物だった。-辻まこと『おやじについて』

個はシソーの中になんかにあるんでのうて、その人その人の生き様にしかないやんけ。

そやろ?


ほな。