良い悪いでなく、合う合わないの世界もあったりする…当たり前か

イメージ 1

辻潤の息子、辻まことによる父親像(オリオン出版「辻潤著作集」より)】


知り合いの社長が、ブランド品の鞄をくれた。

「ええ物やで」とさかんに強調してたけど、私が持つと安物の金融屋にしか見えない。

たしかに、値の張る良い鞄ではあるけど。

そういう事は間々ある。


知り合いの飼っている猫が子猫を生んだ。

三匹をそのまま飼っているが、三匹とも性格が違う。

当たり前の話かも知れないけど。


文学や思想なんかも(軽々しい言い方だけども)そういう所はあるように思う。

重要な作家、作品は沢山ある。必要なら読まないといけないだろう。

だけど、自分とピッタリくるかどうかは、別の話と思う。


高木護という人がいる。

木賃宿に雨が降る』とか『なんじゃらほい』といった随筆や詩集『天国に近い一本の木』を書いたりし

ている。最近では『爺さんになれたぞ』を出している。

辻潤も高木護も、何者かになることを拒否した人だから、何者でもなく、ただの爺さんになれた事を喜ん

でいるのだと思う。

この人は、たいまつ書房から『辻潤~一個の個』(たいまつ新書)を出し、『辻潤』の全集の編集にも参

加したりしている。

高木護にしろ、玉川信明にしろ辻の全集に関わった人は、なんだか同じ匂いがするように思う。


その高木護が、博多の丸善で丁稚をしている頃、出会ったのが辻潤だった。

この後、高木護は結核となり、とんでもない放浪を余儀なくされるのだけど。

戦前の事で、店頭に並んであるものではなかったが、古本屋を開業している店の先輩に相談に行くと、店

の置くから一冊の本を出してくれたという。

その時の、先輩である古本屋の主人の言葉がこうだったと記憶する。

辻潤は、人によっては毒にもなるし薬にもなるから、その辺を考えて読むほうがいい」


その通りだと思う。私の周りでも、辻を読んでも「そんな事は当たり前の話だろう」で終わる人もいる。

うまく言えないが、初めから生きている事を肯定的に考え、その時々の季節や風景、旨いもの、旨い酒、

旨い音楽を楽しめる人にとって、辻の話は「そんな事、いまさら確認しなくても・・・」という事に尽き

るように思える。

だから、辻潤を読む必要のない人は必ずいる。当たり前だけど。

辻自身はこういう事を言っている。

「スチルネルはその生前に彼自身の哲学をどの位まで実生活の上に体現していたかは、今考えてみたとこ

ろで彼自身以外の、殊に後世の僕らにわかる筈のものではない(自分だけの世界)」

辻の書くものは平易な表現が多く、読み流す事も多い。しかし、辻が「出来るだけ正直に」と書く時、そ

れは文章の飾りとしてでなく、本当にそうあろうとしての事である。だから「出来るだけ」なのだ。なに

しろ『自我教』のまま生きようとした人だから。


脈絡のないような文章の中で、辻はにこうした事ぽつんと書いたりしている。


「自分にとって文学することは生活することである。自分は芸術至上主義者ではないが、少なくとも

生活至上主義者である。」(迷羊言)


「思想を生活(行為)に転換する時にのみ、その人は思想の所有者である。」(ダダの話)


・・・中途半端に終わりです。