おうら山吹の至りにそろ
むかしのメモがある。
中村還一の『スチルナーと日本の思想風土』からのもの。
中村還一という人、アナキストとして運動をしていたと記憶する。詳細については、何も残っていない。
以下にメモを写す。
黒瀬春吉。辻や大杉とも交流があった。大正7年に浅草で『グリル茶目』を開店。同時に『労農同盟会』
なるものを作り、『資本と労働』というタブロイド新聞を発行する。
その『グリル茶目』の二階に六畳の客室の壁は、常連の文士たちによって落書きが書かれていた。
そこに、次のようなものがあったという。
おまえとならばどこまでも 栄
おうら山吹の至りにそろ 潤
市ケ谷断頭台の上までも 野枝
大杉栄と伊藤野枝の書いたものの行間に、黒瀬に乗せられて辻潤が書き入れたそうだ。
大杉も野枝も、辻がそこに書き入れる事を想定して書きはしないはずだ。大杉と野枝は日陰茶屋事件で世
間の非難を浴びている中で、それがどうしたの気持ちがあったと思われる。
その辺りを理解した上での辻の書き込み。
人によって感じ方は違うだろうが、私は辻潤らしいと思っている。
中村還一の『スチルナーと日本の思想風土』からのもの。
中村還一という人、アナキストとして運動をしていたと記憶する。詳細については、何も残っていない。
以下にメモを写す。
黒瀬春吉。辻や大杉とも交流があった。大正7年に浅草で『グリル茶目』を開店。同時に『労農同盟会』
なるものを作り、『資本と労働』というタブロイド新聞を発行する。
その『グリル茶目』の二階に六畳の客室の壁は、常連の文士たちによって落書きが書かれていた。
そこに、次のようなものがあったという。
おまえとならばどこまでも 栄
おうら山吹の至りにそろ 潤
市ケ谷断頭台の上までも 野枝
大杉栄と伊藤野枝の書いたものの行間に、黒瀬に乗せられて辻潤が書き入れたそうだ。
大杉も野枝も、辻がそこに書き入れる事を想定して書きはしないはずだ。大杉と野枝は日陰茶屋事件で世
間の非難を浴びている中で、それがどうしたの気持ちがあったと思われる。
その辺りを理解した上での辻の書き込み。
人によって感じ方は違うだろうが、私は辻潤らしいと思っている。