岩野泡鳴~辻潤~シュティルナー

辻潤は書く。

「僕は昔から岩野泡鳴が好きで、彼の影響をかなり受けたが、実際彼は日本近代の最大の思想家であり、

文学者であると、帰来改めて彼の事を考えている。泡鳴氏と云うとなにか人物にコッケイ味が伴うが、全

く彼のような真摯な態度で文学の為に努力した人は少ないように思う。僕はもう一度、彼をよく読みなお

して見たいと考えている。」(辻潤『西洋から帰って』)


辻がこう書いているからには、岩野泡鳴を読む必要があった。

岩野泡鳴の『神秘的半獣主義』。たまたま古書市で見つけたので買い求め、早速読み出したが…。



岩野泡鳴はこんな具合。

「煩惱即菩提とは、俗曲にまでも亂用してあつて、佛家でさへもう古臭いやうに思つて居よう,然し、こ

の大宇宙のうちに、一つとして全く新しいと云はれるものがあらうか、どうか。歴史といふ棺桶を一度で

もこぐらないものがあらうか、どうか。若しあるとすれば、それは、神も知らない、人間も知らない、ま

た棒振りも、アミーバも、最小原子も知らなかつた世界が、別に何物かに依つて作られた時であらう。」
                                     ~『神秘的半獣主義』


引用の部分は初めの方だからそうでもないが、これは真面目に読まないといけないのだろうか?笑えると

ころもあるが、それは私の方がおかしいのだろうか?と思いながらの読書だった。


ついでに、もう一人。シュティルナーはこんな具合。これも結論部分の優しい方の文章で。

「神のことは、神のこと、人間のことは人間のこと。己のは神のことでも人間のことでもなんでもない。

況して、真理、善、正義、自由のkとではなおない。だからまったく己のことだ、そして一般のものじゃ

ない。けれど、無二だ、己が無二だから。己以外のことは己にとって全く無だ!」 
                                     
    ※万物は己にとって無であるは、ゲエテによる。
     直訳すれば「自分は自分の事柄を何物の上にも置かなかった」となる。
                                        ~『自我教』


ところで、神秘的半獣主義といっても、半分獣のようになって生きろって言ってるわけではない。

泡鳴は、霊肉一致の刹那流転をその生き方の骨子として、事業に、恋愛に、創作に奮闘した人であり、

シュティルナーの<創造的虚無>と一致するところが多い。

辻は、その実践者。しかも徹底した実践者と云える。


辻潤にとって、絶えず自分の心内に欲求に聞いて、その欲するままに生活すること、それが彼の思想で

あり、かつ現れにおいては文学となった。したがって辻潤の思想、文学が生活と一致したというより、せ

ざるを得なかったというのが実情である。」(『ダダイスト辻潤玉川信明


シュティルナーの場合は、辻への影響は、辻の書いたものから容易に見て取ることが出来る。

岩野泡鳴は?

岩野泡鳴『神秘的半獣主義』

「僕等は、永続的結婚の成立を確立することが出来ない。一夫一婦とは、その瞬間に於いてのみ、真理で

ある。」

辻潤『ふもれすく』

「僕は野枝さんと生まれて始めての熱烈な恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。……あの

時、僕が情死していたら、如何に幸福であり得たことか!……そんなことを永久に続けようなどと云う考

えがそもそものまちがいなのだ。」

間違いなく、辻は泡鳴のこの部分を意識した上で書いていると思う。

そして、辻は実践者であるからの特徴が際立っている。要するに、シュティルナーや泡鳴よりもわかり易

く、その世界を案内してくれる。

一つ間違えば、飲み屋で小父さんが話すヨタ話に思われそうだが。



車谷長吉さんの『銭金について』の中に「読むことと書くこと」というのがある。

仏教の四苦八苦の内容から、書く事の意味を書いている。車谷的に。


「釈迦は勿論、宗教家です。人間世界を苦しみの世と考えました。つまり「娑婆苦」「業苦」の世界で

す。そこから瞑想をするとか、座禅をするとか、謂る佛教の修行をすることによって、悟りを啓いた。併

し文学の方は、この苦しみを苦しみとして受け止める。苦しみを背中に背負って、どこまでも歩いて行

く。悟りを啓かないという強い意志を持って、自分の苦しみ、運命と戦っていく、その「戦いの記録」が

文学です。」

辻潤の書いたものは、こうしたものの様に思えたりする。