辻潤~パリで読んだのは『大菩薩峠』

例えば、山手樹一郎を読むきっかけ。

吉本隆明が「山手樹一郎」を読むと書いているのを見てという、単純明快な動機です。

まあ、普通に軽薄です。


大菩薩峠』を読もうと思ったのは、辻潤が松尾邦之助の尽力でパリに派遣記者として行った際、船中、

滞在中の下宿で、夢中になって読んだと書いてたからというだけの理由。

パリ滞在中、辻は友人の武林無想庵に引っ張り出されない限り、外に出ることもなかったという。

パリから戻ると「僕は昔から岩野泡鳴が好きで、彼の影響をかなり受けたが、実際彼は日本近代の最大の

思想家であり、文学者であると、帰来改めて彼の事を考えている。」なんて事を書いたりしている。

♪月は宵に来て、朝帰る
  辻さん今来て、今帰る♪・・・パリから帰るときに、見送りの日本人たちが辻に唄ったそうだ。

 

中里介山の『大菩薩峠』は長いです。読んでる途中から、話の中と実生活との時間の流れが同じような具

合になったりするぐらい長いです。

大菩薩峠』といえば、机龍之介です。音無の構えの盲目の剣士であり、市川雷蔵があまりにも適役だっ

たため、そのイメージが強く残っているようにも思います。けど、話の中断ぐらいから机龍之介はほとん

ど登場しません。


私にとって『大菩薩峠』は、物語の途中から登場する、間の山のお君が歌う歌である。

   夕べ明日の鐘の音
   寂滅為楽と聞こえども
   聞いて驚く人もなし
   花は散っても春に咲く
   鳥は古巣に帰れども
   行きて帰れぬ死出の旅 



松岡正剛「千夜千冊」を読んだら、やはりこの歌を結論的に持ってきていた。

長い物語を読んだものの役得。おそらく、辻もこの辺りに共感を覚えたのではと思う。


そういえば、野枝に去られた辻は、酒に走り酔うと少し小首を傾げて歌う歌があったそうだ。

  「親のない子とはまち鳥 日さえくれればちよちよと」

哀感あふれたその歌は、聞く人の耳に残るものだったそうである。


玉川信明さんは『ダダイスト辻潤』の中にオマル・ハイヤームを何箇所か引用している。

辻自身も訳している。

   もともと無理やりつれだされた世界なんだ、
   生きて悩みのほか得るところ何があったか?
    今は、何のために来り住みそして去るのやら
    わかりもしないで、しぶしぶ世をさるのだ! (オマル・ハイヤーム



直接の関係はないにしろ、私には三つの詩は辻潤的な感覚という所で共通しているように思える。


その上で、辻はこのように書き、このように生きようとした。

「人間はこの世の中に生きている限りは、お互いに出来るだけ享楽をしなければならない。享楽のないと

ころには決して幸福はありえない。」(享楽の意義)