スキゾ人間~辻潤

だから?といわれると大変困るのですが、言葉の上ではよく似ております。


浅田彰

  コイツ(≪逃げる人≫)は何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。

  そのためには、身軽じゃないといけない。家というセンターを持たず、たえずボーダーに

  身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、その

  つどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよ

  りになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、

  これはまさしくスキゾ型、というワケね。
                               ―「逃走する文明論」


<辻 潤>

  僕はこの機会に日本の官憲に対して、自分の社会主義者でもなく、無政府主義者でもない

  ことを明らかに申し上げておきます。それと同時にまた僕を知っている世間に対しては、

  スティネリアンである自分の如何に羊の如く温順で、また意気地のない男であるかを改め

  て申し上げておきます。また僕が時に浅草公園の劇場に現れて役者の真似などをすること

  を心配して下さるご親切な方々に申し上げます。人間になんらのVocationをも、Callingを

  もまたFunctionをも認めないスティネリアンである僕は、時に役者となり、時に寄席芸人と

  なり、時に浮浪人となり、時に食客となり、時に翻訳業者となり、時に小説を書き、時に職

  工となり、時に……となることができるでありましょう。僕はただ自分を自我(スティルネル

  はそれを―創造的虚無と呼んでいます)の赴くままに生きていくのみであります。まことに

  「予においては自分自身を仮想する仮想から出発する。けれど予の仮想は『自己の完成のため

  に努力する人間』の如く、その完成のために努力はしない。けれどただそれを享楽し、消費す

  る点で予に役立つ、予は予の仮想を消費する。それ以外の何者でもない」のであります。
                                 ―「読者のために」


しかし、辻潤の生涯をなぞっていくと<スキゾ人間>で生きていくのは、それほど気軽で面白いとも思え

ない。知人の門前で尺八の門付けをして疎ましがられ、居候を追い立てられ、天狗になって精神病院に入

れられ、最後には餓死して虱にわが身を与えて昇天ですので。


浅田彰氏の<パラノ人間><スキゾ人間>分類が流行ったのも、もうずいぶん前の話です。今こうして両

者を比較して似ているからといって、そこから何かを引き出そうとは思いませんけど。

「産業化社会」から「情報化社会」へとか「成長する時代」から「成熟する時代」へ。バブル前期によく

見られたフレーズとともに、シュティルナー辻潤とは関係のない所から、よく似た世界が語り始められ

たのではと思ったりしております。