柔らかい個人主義

1984年に山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学』が出版されております。

同じ年、電通藤岡和賀夫氏は『さよなら、大衆。-感性時代をどう読むか』を出されてます。

経済の展開に人間観を対応させた、そんな2冊だったように思います。

浅田彰の<スキゾ人間>とシュティルナーに共通点を見ることが出来たように、山崎氏の「柔らかい個人

主義」にもそうしたところがあります。


山崎氏は、前産業化時代=誰でもない人=Nobody → 産業化時代=誰でもよい人=Anybody → 脱産業化

=誰かである人=Somebodyとその経済段階での人間観を分類していきます。

シュティルナーでは、Nobody → Somebody → Mr.Thisbodyとされます。

これは、シュティルナーの言葉ではなく、辻潤が訳した『唯一者とその所有』の英語版の訳者、J・L・ウォ

ーカーによる、序文からの引用です。日本語訳は辻潤によります。

『唯一者とその所有』(序文)より

 種々なる理想に対して先在する崇拝及び自己無視は、精々のところでエゴからSomebodyを造った。

 しかし、よりしばしば暴虐な教義の恩恵や屑をもって充たさるべき空虚な器を造った。かくして

 それはNobodyである。スティルネルは病的な服従を排斥する。そして彼自身の所有として彼自身

 を知り、かつ感じている各人を認めるに賤劣なNobodyでもなく、困惑されているSomebodyでもな

 いとする。だからそれは足の平らな、頭の普通なMr.Thisbodyである。その人は、彼が自分の性格

 を持っているように、彼自身の性格と善き快楽とを有している。



浅田彰氏の「スキゾ人間」もそうですが、バブル前期にシュティルナーの考え方に似たものが、たくさん

出現したのは、どういう理由によるのかは結論できませんが、私としては、一体、どうしたんだろう?と

いう現象でした。

ただ、シュティルナー辻潤の再生と思われたものも、泡と消えたように思われます。

何が残ったか?です。