高木護さんのこと

  ○日 戸畑、残二つ。チュウ二はい。

  ○日 戸畑、残一つ。チュウ二はい。少々バテ気味なり。
 
  ○日 戸畑、残なし。チュウ三ぱい。自我教を読む。
 
  ○日 休む。朝から、チュウ二はい。「陀々羅行脚」の"博多から長崎まで"と"島原と天草のグリン
     プス"を読みふける。まさに浮浪のぶらぶら物語で、おもしろし。天草組んだりまで彼が出没
     したとは知らざるき。黒石とは何者か。

                            ― 高木護『辻潤-個に生きる』より。

昭和37年(1963)頃、高木護さんが人夫稼業をやっていた時のメモ。

チュウは焼酎。残は残業のこと。

その流れ人夫の生活も昭和38年に急性肝炎になり、酒も仕事もやめないと命取りになると忠告され足を

洗う事になります。

「昭和38年11月上京。これで、辻潤に一歩近づいたような気がしてきた。」そう書いてられます。


高木護さんは、復員後故郷の熊本に帰るも結核となり、村八分になる前に家族を守るためにも、山の炭焼

き小屋に自身を隔離したような人です。

しかし、そこで「死にそこなった」高木さんは、村を出る。ここから浮浪が始まります。

上京するまでにやった仕事は、本人によると山番、伐採手伝い、日雇い土方、炭焼き、闇市場番人、トラ

ック助手、ちゃんばら劇団の切られ役、趙家の使用人、古着屋の手伝い、商人宿の番頭、ジガネ堀り、飯

場の人夫、労働下宿の人夫、沖仲士、コークス拾い、浮浪者。

その他にコンニャク屋、自転車の掃除屋、ニセ坊主、占い師、札売り、密造酒売り、うどん屋のい手伝

い、立ちん棒、門鑑配り、下請け組の人夫なんてのもあるそうです。

土方の後輩の私にも内容の分からないものがかなりあります。


いろんな人が辻潤を書いてますが、私は高木護の<辻潤>に最も惹かれます。


辻潤の真骨頂はあくまで一人の人間であったことであろう。つまり一人の人間として。自由な「個」の

思想に生きたのである。」とか「裸で誕生れたのだから、また裸になって死ぬ。というそれ以上の思想は

ないような気がする。」なんて書かれたものを読むたびに、そうやなあ、ほんまやなあといつもうなづい

ております。


高木さんの話の中に、放浪中に何日間かの絶食があり、山の中で草や木の葉を食べていると、自分が人間

であることが面倒になってきて、四つん這いになって吼えたくなったことがあり、ハッと我に帰って頭を

二三発引っぱたいた。そんなのがあります。


人間は動物にはなれないけど、動物以下の存在にはわりと簡単になれたりします。


それは私も知っております。深作欣二の『仁義の墓場』という映画を観た時に、私は映画館のトイレで嫌

というほど吐いてしまいました。あんまりにも、自分が育った世界と同じ風景がそこにあったからです。

その世界から抜け出るには、私の場合は金か頭か暴力が手っ取り早かったのですが、そういう闇のような

ものと素手で向かい合いながら、生きてこられた高木さんは、私の師匠のような人かも知れません。


私はいつでも、そこに戻れるというケッタイナ自信があるから、自分が怖いのです。


もう一人、闇と素手で格闘してはると思った人がいました。押しかけて無理やりお会いして、わけのわか

らん著書の読書感想を一方的に話して、ご迷惑をかけた人です。

上野英信という人です。


話がずいぶんと変わってしまいました。


「その盲目の語学者がわたしに巣くってしまったのは、丘の松林のなかの、神殿のように床の高い古風な

教室においてであった」。ここから始まる、足立巻一の『やちまた』は盲目の言語学者本居春庭(本居

宣長の子)の評伝であるとともに、足立巻一自身の自伝的作品でもあります。

高木護さんの『辻潤―「個」に生きる』(たいまつ社)は、高木さんに巣くった辻潤を『やちまた』のよ

うに書いた本と思います。

高木さんは戦前、博多の丸善に勤めておられ、そこで「辻潤」に出会ってます。それから、戦争体験、放

浪で熟成された「辻潤」が高木さんの中にいるように思います。



毎度で恐縮ですが、『辻潤―「個」に生きる』は絶版というか出版社がもうないです。

そういえば、アメリカに「沖仲仕の哲学者」と言われるエリック・ホッファーという方が居られます。自

伝しか読んでないのですけど、そんな人を思い出しました。



 <食 事>
  魚を拝む

  肉の一片を拝む

  ―スマン

  今度こそは
  
  おまえたちのために

  その皿に

  私を盛りつけろ

              ― 高木護 詩集『天に近い一本の木』より


なんか長いものになりました。

すいませんです。