ひそかに咲いて、ひそかに腐る花もある… 辻まことの「辻潤」
辻まことは辻潤の息子です。辻潤と伊藤野枝の間に出来た子供です。
それはそれとして、辻まことも画家であり、詩人でもあります。
たしかに、辻まことは「おやじと一緒の墓に入りたくはない」と言っております。
しかし、私はそれを生活者のレベルでの発言とは思っておりません。
ここまで、佐藤春夫、稲垣足穂、萩原朔太郎とその辻評をメモしてきましたが、おなじレベルで考え
ていただいた方がいいのではと思っています。
辻まことも、またそれほどの人なのです。→ http://www2s.biglobe.ne.jp/~go_green/Tsuji/Tsuji.html
以下は松尾邦之助編の『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』に収録された「父親と息子」、『辻まことの
世界』に収録されている「父」からのものを要約しました。
* * * * * *
彼(辻潤)は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された。辻潤は佯狂だという人がいる。
しかし佯狂もまた狂気であると私はおもう。佯狂の様に見えたのは、彼の場合に百パーセントの狂人
ではなく、狂気と正気が共棲していたためだ。機能障害による狂気ではないからだ。おそらく精神が
自衛上採用した最後の手段だったとおもう。
最初の発作が起こった時(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるため、やっとの
おもいで自動車に乗せた。そのとき私は、行き先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は私に
こういった。
― お互い誠実に生きよう。
彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きよ
うとしているのだ」といっていたのだ。一寸まいったのである。
日常の現象生活というものは、いつの時代だって個人に挑戦してくる。量的世界の体制は、その組織
と観念を認めるものだけをゆるす。コミュニズム、ファシズム、アナーキズム、等々の差異は、ひっ
きょう一人の人間の生命に抽象的に生まれた美と真実の質的世界から見れば、比較的重要ならざる差
異であって、等しく無縁なものだ。
辻潤はキリストではない。
彼は人間を救済する使命を抱くほど宗教的ではない。彼は超絶対的な世界観すら拒否した正直な男だ
った。彼が挑戦に応えて試みた方法は、表象されたありのままの自己だけだった。
自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意していたのだ。これが辻潤の美学
だったと私はおもう。
ショーペンハウエル流な「意志」の権化から生まれた自我意識の世界から見れば、これほどはじめか
ら勝敗の明らかな闘争もないであろう。屠殺を経験するために自らおもむく牛のようなものだった。
彼は試みたのだ。人間がそれを試みてみた証拠をともかく辻潤は残した。
昭和19年の春に彼は貧窮のうちに終戦を待たずに死んだ。世間並みにいえばみじめな晩年だった。
しかしほんとうにそうだろうか?私の知るかぎり、ひとりの人間として決して負けなかった人間だっ
た。彼の死は、一つの魂の勝利だったと感じている。
戦争が進展するにつれて、文化の使徒のような顔をしていた有象無象が、どんな醜悪な卑しい虫ケラ
だったかは自ずから明白になっていった。戦争が終わった後の現在でも彼らが、そのみじめさをお互
いに「人間的な弱さ」だなぞとなぐさめあっているのを見かけるが、あの暗い空の下で、心の内でそ
の見せ掛けだけの名論、卓説の類いにわずかにすがっていた青、少年の期待をふみにじって、人間不
信の根性を育てたのは彼等だったのだ。
私は、それまでの友人と先生をすべて失った。すべてである。
彼らの舌は今も昔も風にそよぐ木の葉のざわめきにすぎない。
だが辻潤だけはその風の中で石コロのように自分の重量を守った。私の知っているただ一人の信じら
れる生物だった。
戦争が終わって、私はすぐアメリカの文化センターへ出掛けてフーズフーの頁をめくった。辻潤の死
を知らせるに足る唯一の男として、辻潤の手帖に残っていたベンジャミン・デ・カッサースのアドレ
スを知りたかったからだ…四十八年のフーズフーに彼の死を知らせる記事を発見した。
その中にデ・カッサースの最後の言葉が載っていた。こんな意味だった。
― 俺の人生はミラージュの海に浮ぶ島のようなものだった…
この言葉を辻潤がもし聴いたとしたら、どんなに喜んで同感したか、私にもよくわかるのだ…。
思想とか精神とかいうものは人間が孤独ではないことを証明する唯一のものであるべき筈だ。多くの
人々がそう教わってきたし、それを証明しうる材料もたくさんある。
ボクは全くその反対の現象を眼の前に見せられたように思う。美しい花は多くの眼に発見される。
だが、誰にも解らない場所で、ひそかに咲いて、ひそかに腐る花もある。
それはそれとして、辻まことも画家であり、詩人でもあります。
たしかに、辻まことは「おやじと一緒の墓に入りたくはない」と言っております。
しかし、私はそれを生活者のレベルでの発言とは思っておりません。
ここまで、佐藤春夫、稲垣足穂、萩原朔太郎とその辻評をメモしてきましたが、おなじレベルで考え
ていただいた方がいいのではと思っています。
辻まことも、またそれほどの人なのです。→ http://www2s.biglobe.ne.jp/~go_green/Tsuji/Tsuji.html
以下は松尾邦之助編の『ニヒリスト 辻潤の思想と生涯』に収録された「父親と息子」、『辻まことの
世界』に収録されている「父」からのものを要約しました。
* * * * * *
彼(辻潤)は短い人生の長かった闘争の最後に狂気によって救済された。辻潤は佯狂だという人がいる。
しかし佯狂もまた狂気であると私はおもう。佯狂の様に見えたのは、彼の場合に百パーセントの狂人
ではなく、狂気と正気が共棲していたためだ。機能障害による狂気ではないからだ。おそらく精神が
自衛上採用した最後の手段だったとおもう。
最初の発作が起こった時(不眠不休が三日も続いた)ついに慈雲堂病院に入院させるため、やっとの
おもいで自動車に乗せた。そのとき私は、行き先を彼にはっきりとは告げなかったのだが、彼は私に
こういった。
― お互い誠実に生きよう。
彼は私に「自分の人生を誠実に生きる勇気をもて」といっていたのだ。そして自分は「誠実に生きよ
うとしているのだ」といっていたのだ。一寸まいったのである。
日常の現象生活というものは、いつの時代だって個人に挑戦してくる。量的世界の体制は、その組織
と観念を認めるものだけをゆるす。コミュニズム、ファシズム、アナーキズム、等々の差異は、ひっ
きょう一人の人間の生命に抽象的に生まれた美と真実の質的世界から見れば、比較的重要ならざる差
異であって、等しく無縁なものだ。
辻潤はキリストではない。
彼は人間を救済する使命を抱くほど宗教的ではない。彼は超絶対的な世界観すら拒否した正直な男だ
った。彼が挑戦に応えて試みた方法は、表象されたありのままの自己だけだった。
自分のうちにある愚昧を知性と等しい価値において生きようと決意していたのだ。これが辻潤の美学
だったと私はおもう。
ショーペンハウエル流な「意志」の権化から生まれた自我意識の世界から見れば、これほどはじめか
ら勝敗の明らかな闘争もないであろう。屠殺を経験するために自らおもむく牛のようなものだった。
彼は試みたのだ。人間がそれを試みてみた証拠をともかく辻潤は残した。
昭和19年の春に彼は貧窮のうちに終戦を待たずに死んだ。世間並みにいえばみじめな晩年だった。
しかしほんとうにそうだろうか?私の知るかぎり、ひとりの人間として決して負けなかった人間だっ
た。彼の死は、一つの魂の勝利だったと感じている。
戦争が進展するにつれて、文化の使徒のような顔をしていた有象無象が、どんな醜悪な卑しい虫ケラ
だったかは自ずから明白になっていった。戦争が終わった後の現在でも彼らが、そのみじめさをお互
いに「人間的な弱さ」だなぞとなぐさめあっているのを見かけるが、あの暗い空の下で、心の内でそ
の見せ掛けだけの名論、卓説の類いにわずかにすがっていた青、少年の期待をふみにじって、人間不
信の根性を育てたのは彼等だったのだ。
私は、それまでの友人と先生をすべて失った。すべてである。
彼らの舌は今も昔も風にそよぐ木の葉のざわめきにすぎない。
だが辻潤だけはその風の中で石コロのように自分の重量を守った。私の知っているただ一人の信じら
れる生物だった。
戦争が終わって、私はすぐアメリカの文化センターへ出掛けてフーズフーの頁をめくった。辻潤の死
を知らせるに足る唯一の男として、辻潤の手帖に残っていたベンジャミン・デ・カッサースのアドレ
スを知りたかったからだ…四十八年のフーズフーに彼の死を知らせる記事を発見した。
その中にデ・カッサースの最後の言葉が載っていた。こんな意味だった。
― 俺の人生はミラージュの海に浮ぶ島のようなものだった…
この言葉を辻潤がもし聴いたとしたら、どんなに喜んで同感したか、私にもよくわかるのだ…。
思想とか精神とかいうものは人間が孤独ではないことを証明する唯一のものであるべき筈だ。多くの
人々がそう教わってきたし、それを証明しうる材料もたくさんある。
ボクは全くその反対の現象を眼の前に見せられたように思う。美しい花は多くの眼に発見される。
だが、誰にも解らない場所で、ひそかに咲いて、ひそかに腐る花もある。