これといった者になれなくても、爺さんになれたら、それでよいではないか

これといった者になれなくても、爺さんになれたら、それでよいではないか。


高木護さんは書いてはります。

高木護さんの『爺さんになれたぞ!』は影書房より2004年3月に出版されております。

高木さんは1927年生まれですから、今年で79歳になられるはずです。


この本は、こんな調子で書かれております。

「朝めしなど、だれも支度してくれない。自分で支度してもよいのだが、面倒くさいからと、いいわけを

して食べない…年金なしの上に、月々の収入もないにひとしいから、めし代を工面するのも一苦労である

爺さんになってまで苦労するよりも、めしなしにした方が楽である…朝めし抜きに慣れてくると、さほど

腹も空かないし、水道の水だっておいしくなってくる…爺さんにはめしよりも、水のほうがクスリにもな

るようである。」

水については、こういう記憶があるそうです。

「定職につけないまま、もうどうでもいいや、やがてお迎えさんがきて下さって、片付けてくださるだろ

うとぶらぶらをはじめ、九州一円だけど歩いていたときのこと、三日も四日も食べられないで、水のお世

話になって、辛うじて命をつなぎ留めたものだった…それからも、水に何度か助けてもらってるうちに、

なんとはなしに、「ありがとうさん」と。手をあわせていた。」


高木さんの文章は柔らかいので、ついついフ~ンって流しがちですが、よくよく読んでみると、いつも捨

て身で生きてはります。

とんでもない人です。


これを読んでたら、ずいぶんと昔に読んだアン・リネルという人の事を書いた本を思い出しました。

こんな事が書いてありました。

アン・リネルはパリに行く列車で、ドアに指をつぶされた友人の事件のことを書いています。


「それはちょうど春先のノルマンディで起こったことだそうですが、その友人は血だらけの指をハンカ

チで巻いて、パリに着いた時、こう二本指に向かっていったそうです。

ねえ、君、君らがダメになっても、それがノルマンディの花や樹の美しさを眼で見ることを妨げなかっ

たよ。」


『近代個人主義とは何かー現代のソクラテス哲人アン・リネルの個人主義ー』松尾邦之助さんの書か

れた本にありました。

アン・リネルという人はフランスの人で(アルジェリア生まれ)、フランスではけっこう読まれた人らし

いですが、日本ではまともに紹介されたことがないそうです。

そういうことは、けっこうありますけど。

ちなみに、松尾邦之助はアン・リネルのことを「パリの辻潤」なんて言ったりしてます。松尾さんは辻

マニアの大先輩です。『ニヒリスト―辻潤の思想と生涯』を書かれたりしてます。


パリの辻潤ことアン・リネルはこんな事を書いたりしてます。


個人主義者という言葉を、形而上学的な意味で説明することも出来ましょうし、また、個人というもの

の持つ本質的なものが何であるかを研究することも出来ましょう。しかし、わたしは、そうした方向をと

って説明したくはありません。そのような研究はあまりにも深遠すぎます。とにかく、わたしは、定義し

たり、証明したくないのですが、ここでは現実にそって、現実に一番近いものとしての個人主義を説明し

たいのです。」

個人主義の賢明を身につけ、倫理的な個人主義に徹して生きるための努力とは、自分が自分の自分にな

る。つまり「自分が自分の主人公になる」ためのいろいろな方法を選び、それを実行すること」


いつもの事ですけど、話がずれてきました。

アン・リネルがパリの辻潤なら、高木護さんは横浜のアン・リネルみたいやなあと思った次第です。


『爺さんになれたぞ!』の書評がありました。
   →http://www.kageshobo.co.jp/main/syohyou/jiisann.html

高木護さんの略歴です。
   →http://www.k3.dion.ne.jp/~scarabee/sukajin-ta-ta.htm#takagimamoru

しょうむないですけど、私も少し書いてます。
   →http://blogs.yahoo.co.jp/tei_zin/10905895.html



うっかりしてると、いつのまにか命を弄ばれたりします。

いつか、高木さんの様に、自分の命を遊ぶような爺さんになりたいと思ったりしております。


・・・いちおう、まだオッサンです。